シロブシン・72城一覧

本ページは、築城系マージャンカードゲーム「シロブシン」に登場する72城を紹介するコーナーです。あの城この城をさらに詳しくなって、知識においても「城武神」を目指してみてください。各お城の紹介記事は、50音順で、日々更新していきます。

会津若松城―あいづわかまつじょう―

所在地/福島県会津若松市追手町
築城年/1384(至徳元)年
築城者/蘆名直盛、蒲生氏郷、加藤明成
主な城主/松平容保(かたもり)
天守建造年/1593(文禄2)年
復元天守建造年/1965(昭和40)年
別名/鶴ヶ城、若松城、黒川城

城パーツ/外観復元天守-がいかんふくげんてんしゅ-(肆)

東北地方初の豊臣の城にして近世城郭

地元では「鶴ヶ城」の名で親しまれる会津若松城。黒川城と呼ばれていた時代は蘆名(あしな)家の居城として栄えていたが、伊達政宗に滅ぼされると伊達家の支配下に。その後豊臣秀吉が天下を統一すると豊臣政権下の有力大名・蒲生氏郷(がもううじさと)が入城、大規模な城の改修と城下町の整備を行い、奥州の抑えの地とした。当時の天守は望楼型5重7階とされているが、1611(慶長16)年の会津地震により傾斜。その後、望楼型5重5階天守に建て替えられている。

幕末の戊辰戦争では新政府軍の猛攻でボロボロになりながら持ちこたえるも降伏。明治時代に破却された。現在の天守はその際に撮影された写真を元に再建された層塔型にした5重5階建てで、江戸時代後期には屋根が凍害にも強い赤瓦だったことが発掘調査により判明している。2011(平成23)年には史実に則って赤瓦に葺き替えられた。

明石城―あかしじょう― 重文

所在地/兵庫県明石市明石公園
築城年/1620(元和6)年
築城者/小笠原忠真(ただざね)
別名/人丸城、喜春城、錦江城、鶴城

城パーツ/現存坤櫓-げんぞんひつじさるやぐら-(参)

現存の代用天守は必見!西国要衝の城

 明石城は姫路藩が改易されて藩が細分化した際に、西国の外様大名に睨みをきかせるための防衛ラインの一つとして築かれた城。築城にあたっては1617年、松本藩主・小笠原忠真が幕府の命により入封(にゅうほう)した。建造には自領内の三木城、高砂城などの部材が使用され、城内最大規模の現存坤櫓(ひつじさるやぐら)は、伏見城の三重櫓を移築したものと伝わる。

 当初は五重天守を築く予定だったが建造は許可されず、台石まで積まれたものの結局天守は建造されていない。このため4隅に建造された三重櫓のうち、現存の坤櫓が“代用天守”の役割を果たすこととなった。天守の代用だけあって、正面の破風(はふ)と木連格子(きづれごうし)は風格十分!また、坤櫓に加えて巽櫓(たつみやぐら)も現存の建物で、坤櫓が妻側(天守の棟に対して直角な側面)が正面であるのに対し、巽櫓は平側(天守の棟に平行した側面)が正面を向いている。巽櫓は阪神淡路大震災で被災するも修復が行われ、両櫓を結ぶ約82mの土塀も復元された。

 ちなみに小笠原氏は苦心して城を完成させるも1632年、今度は小倉藩(福岡県・大分県)に天封。その後城主が度々入れ替わりながらも、城は明治維新まで存続した。

安土城 ―あづちじょう―

所在地/滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
築城年/1576(天正4)年
築城者/織田信長

城パーツ/天守台石垣-てんしゅだいいしがき-(石)

近世城郭の元祖。“信長の城”の集大成

織豊系城郭という言葉もあるほど、城の在り方を真っ向から変えた織田信長。信長はそれまで単なる軍事施設という位置づけにすぎなかった城を、「自らの権威と富を象徴するもの」へとその価値を進化させていった。安土城は小牧山城、岐阜城…と時代ごとに本拠を移してきた“信長の城”の最終形態。何もかもが規格外に造られた城である。

中でも信長が自らの力を見せつけるために築いたアイテムが「石垣」。標高199mの安土山は、築城当時は琵琶湖に面しており、信長はこの琵琶湖に突き出るような小山に超大規模な総石垣の城を建造した。

信長時代の石垣は「野面積(のづらづみ)」と呼ばれる自然石を積み上げたもの。石垣の隙間を埋める間詰石(まづめいし)や、石垣背面の裏込石(うらごめいし)等を持つのが特徴で、安土城では巨石の石積みも大迫力!それまでの中世城郭にはない石垣の桝形虎口等も見応えがある。

天主(信長時代は天守をこう呼ぶ)は高さ46m、日本初の5重6階地下1階の絢爛豪華なものであったといわれ、8角形の台地に建物の礎石が整然と並ぶ様子は、わずか数年で幻となった城の存在を今に伝えている。また、天守台の隅にある「しのぎ積(隅角が鈍角になる積み方)」の石垣は、日本最古のもの。これが後の時代に隅石の主流となる「算木積(長辺と短辺が交互になる積み方)」の原型となった。近世城郭の在り方を決定づけた城は、日本の城郭史においても革命的な存在であるといえる。

犬山城 ―いぬやまじょう― 国宝

所在地/愛知県犬山市犬山
築城年/1537(天文6)年、1596(慶長元)年
築城者/織田信康、石川光吉
天守建造年/1537(天文6)年
別名/白帝城

城パーツ/現存天守-げんぞんてんしゅ-(壱)

安土桃山文化を伝える、優美な望楼型天守

1469(文明元)年、尾張守護の斯波義簾(しばよしかど)の家臣であった織田広近が築いた木之下城が前身。1537(天文6)年、織田信長の叔父である信康がこの城を廃し、新たに築城したものが今に伝わる犬山城である。

注目すべきはやはり信康の頃、安土桃山時代に造られた天守。入母屋2重2階の建物に上層部を載せた複合式望楼型天守は、その古風で優美な佇まいも魅力。内部は3重4階建て地下2階の構造で、このうち下の2重2階の入母屋(いりもや)は1596(慶長元)年に増築された。また、3、4階の望楼部分は1620(元和6)年頃、尾張徳川家の重臣・成瀬正成によって拡張されたもの。この時3階部分の唐破風出窓の増築に加え、4階望楼部には高欄と廻縁が巡らされており、現在目にするビジュアルの天守完成に至った。

明治時代に廃城となった際、天守だけは取り壊しを免れるも、1891(明治24)年、濃尾大地震で半壊。修理を条件に旧犬山藩主の成瀬家に無償で譲渡され、2004(平成16)年に財団法人犬山城白帝文庫に譲渡されるまで、近代日本において唯一の個人所有の城としても歴史を歩んだ。

後に、その美しい姿をモデルにした模擬天守が日本各地で建築されたため、日本人が抱くお城のイメージにも、大きく寄与している。

岩国城 ―いわくにじょう―

所在地/山口県岩国市横山
築城年/1608(慶長13)年
築城者/吉川広家(きっかわひろいえ)
天守建造年/1608(慶長13)年
復興天守建造年/1962(昭和37)年
別名/横山城

城パーツ/復興天守-ふっこうてんしゅ-(肆)

要害の山上に築かれた南蛮造の天守

関ケ原合戦の西軍敗北に際し、周防・長門の2国に移封された西軍総大将・毛利輝元。それに伴って、当時毛利氏支藩の米子城主であった吉川広家が入封して築城したのが岩国城である。実は関ケ原の戦いの際に毛利氏が積極的に戦わなかったのは、この吉川広家が東軍の徳川家康と内通しており、戦後も毛利家を存続させると約束を取り付けていたため。しかし家康は約束を反故にして上記の通り毛利氏を大減封。吉川広家は毛利氏の新たな本拠・萩から最も遠い岩国に所領が与えられ初代藩主となるも、あくまで毛利氏領内の支藩としての存続であった。

広家が山上に築いた城は、4重6階の天守を持つ戦の可能性も念頭に置いたもの。しかしわずか7年後に幕府より一国一城令が発令され、長州藩の“支藩”である岩国藩は破却・廃城の命を受けることとなる。以降は土居(居館)が陣屋として存続し、幕末までこちらで政務を執り行い、藩としては存続した。

現在の天守は、本来の場所から少し離れた場所に絵図を元に建てられた復興天守。3重目が外に膨らんだ、南蛮造(唐造)の複合式望楼型4重6階建てとなっている。なお、本来の天守台は1995(平成7)年に発掘・復元され、石垣や堀等の遺構も残っている。

上田城 ―うえだじょう―

所在地/長野県上田市二の丸
築城年/1583(天正11)年、1626(寛永3)年
築城者/真田昌幸(さなだまさゆき)、仙石忠政(せんごくただまさ)
別名/尼ヶ淵城、伊勢崎城、真田城

城パーツ/現存西櫓-げんぞんにしやぐら-(天)

難攻不落!徳川を撃退した真田の城

“日ノ本一の兵(つわもの)”として知られる真田信繁(幸村)の父・昌幸が築城した上田城。その大きな特徴は河岸段丘を利用していること。城の南側はかつて千曲川に面しており、自然地形を活かした天然の堀の役割を果たしていた。このため上田城は北側から臨むと一見平城に見えるが、南側から見たときは聳える段丘が山城のような風情を持つ。

この城の歴史的ハイライトといえば、やはり徳川氏と争った2度に及ぶ上田合戦。1585(天正13)年の第一次上田合戦では、二の丸まで押し入った7,000の徳川兵をわずか2,000の兵で待ち構えて撃退!さらに15年後、1600(慶長5)年の第二次上田合戦では関ケ原に向かう徳川秀忠軍をおびき寄せて集中砲火し、見事足止めに成功した。

江戸時代になると千石忠政が入城し、土塁や堀から成る真田の城を近世城郭に改築。真田時代に築かれた曲輪を活かしつつ、本丸や二の丸を石垣で囲んでいる。本丸の周りには7棟の櫓が築かれたとされ、そのうち南・北・西の3棟の櫓が現存。南櫓と北櫓が廃城令時に一度民間に払い下げられ、戦後に市が買い戻して移築されたものであるのに対し、西櫓は唯一、同じ場所で現存している。入母屋造の本瓦葺の櫓は、横板張りの上も厚い壁で覆った塗籠(ぬりごめ)スタイルで、寒冷地によく見られる建築方法。古写真を元に木造復元された東虎口櫓門やその右側、築城時に真田幸昌が据えたと伝わる巨大な「真田石」もぜひ見ておきたい。

宇都宮城―うつのみやじょう―

所在地/栃木県宇都宮市本丸町、旭1丁目
築城年/平安時代末期
築城者/藤原秀郷(ひでさと)または藤原宗円
主な城主/本多正純(ほんだまさずみ)
天守建造年/1619~1621(元和5~7)年
復元天守建造年/2007(平成19)年
別名/亀ケ岡城、亀井城、唐糸城

城パーツ/復元清明台櫓-ふくげんせいめいだいやぐら-(天)

本多正純が礎を築いた城がよみがえる!

始まりは平安時代にまでさかのぼる宇都宮城。平将門を征伐した藤原秀郷が築いた館を、康平年間(1058~1065年)に宇都宮氏の祖である藤原宗円が本格的な居館に改築。南北朝時代には土塁が積まれ、本丸から三の丸まで備える城へと整備された。

大改修が行われたのは、1619(元和5)年に本多正純が移封された際。正純の手によって城域は2倍以上に広げられ、外堀も拡張。石垣はほとんどないものの壮大な土塁と4重の水堀を持つ、近世城郭に変貌した。なおこの際に天守も築かれたというがいつしか失われ、記録にも残っていない。その後は幕府に配慮する形で、本丸の北西隅に建てられた2重2階の清明台櫓を“代用天守”に。本丸は将軍が日光東照宮へ参詣するための宿館となり、城主は二の丸御殿を使用していたという。

ところが、こうした正純の意に反した事件が勃発。2代将軍秀忠を本丸御殿の釣天井で暗殺しようとした疑いをかけられ、1622(元和8)年、わずか3年で改易となってしまう(釣天井事件)。とはいえ正純時代に築かれた都市基盤は現在の宇都宮市の礎となり、その後も入れ替わり譜代大名が城主を務めた。

1868(慶応4)年の戊辰戦争の戦火で建造物の大半が焼失。その後も市街地化の波に飲まれ堀も埋め立てられたが、市民らの運動もあって整備・復元が進められ、水堀や土塁、二十櫓等を見ることができる。

宇和島城―うわじまじょう― 現存天守 重文

所在地/愛媛県宇和島市丸之内
築城年/1236(嘉禎2)年、1596(慶長元)年、1664(寛文4)年
築城者/西園寺公経(さいおんじきんつね)藤堂高虎(とうどうたかとら)、伊達宗利(だてむねとし)
主な城主/藤堂氏、富田氏、伊達氏
天守建造年/1671(寛文11)年
別名/鶴島城、板島城、丸串城

城パーツ/現存天守-げんぞんてんしゅ-(弐)

戦略が随所に息づく、藤堂高虎の初期型海城

宇和島城のルーツは遥か1000年以上前、941(天慶4)年に藤原純友が反乱を起こした時。この大騒乱の際に純友追討の大将軍となった警護使・橘遠保(たちばなのとおやす)が丸串に砦を築いたのが始まりといわれる。その後西園寺氏の領有となり、長らく同氏の統治が続くも、四国制圧を目指す長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の攻勢に抗い切れず、その麾下(きか)に。豊臣秀吉の四国征伐後は小早川隆景の領土となっていたが1595(文禄4)年、後に築城名人とし名を馳せる藤堂高虎が7万石で入封することとなった。

高虎は直ちに丸串城の大改修に着手し、自ら縄張り図を描いて築城を開始。不等辺五角形の縄張りは最短距離で山を囲むための形状で、うち2面は海に面していた。この五角形の奇抜な縄張りは実際に歩いてみるとその攻略の難しさ、さらには高虎の戦略的意図が体感できる。高虎の築いた天守は岩盤上に築いた望楼型三重天守だったが、古材であったため程なくして老朽化。現存する天守は高虎が今治へ転封された後、2代目藩主となった伊達宗利が新築した3重3階の独立式層塔型である(ちなみに層塔型天守を発明したのは藤堂高虎)。

現存天守は正面には唐破風と千鳥破風が取り付けられた、装飾性の高いもの。玄関には宇和島伊達家の3種の家紋(竹に雀紋、九曜紋、竪三引両紋)があしらわれている。伊達氏の宇和島藩は明治維新まで存続し、廃城令後も天守解体は太平洋戦争の戦火も免れ、解体修理も行われつつ現代にその姿を伝えている。

縄張りと現存天守以外にも、宇和島城は見どころが多数。中でも南側に位置する城門「上り立ち門」は高虎時代唯一の現存建造物であると考えられている、大変貴重なもの。また藤兵衛丸に残る石垣はまだ算木積が確立されていない時代の野面積で、その規模感は後の高虎の代名詞となった高石垣を彷彿とさせる。

大垣城―おおがきじょう―

所在地/岐阜県大垣市郭町
築城年/1500(明応9)年
築城者/竹腰尚綱(ひさつな)、伊藤盛景(祐盛)
主な城主/竹腰氏、氏家氏、伊藤氏、岡部氏、松平氏、戸田氏
天守建造年/1596(慶長元)年
復元天守建造年/1959(昭和34)年
別名/巨鹿城(きょろくじょう)、青柳城、牛屋城 等

城パーツ/外観復元天守-がいかんふくげんてんしゅ-(壱)

関ケ原合戦の西軍本拠!西美濃要衝の城

濃尾平野の北西部に位置し、古くから交通の要衝地であり、“水の都”とも称される大垣。大垣城の前身は1500年頃、竹腰尚綱による築城とも1535(天文4)年、美濃守護・土岐一族の宮川安定による創建とも伝えられる。その変遷は実に紆余曲折。尾張の織田信秀が一族の信辰を城主に据えるも1544(天文3)年、美濃の斎藤道三により落城。しかし西美濃三人衆の1人・氏家卜全(うじいえぼくぜん)が城主となって織田信長に寝返ると、その後は織田家の城として次々に城主が入れ替わった。

大きな転機となったのは1586(天正13)年の天正地震。この際に城は全壊するが1596(慶長元)年に入城した伊藤盛景が再建整備を推進。4重4階の複合式層塔型天守を建設したのはこの頃とされている。

“水の都”の名にふさわしく、大垣城は4重の水堀が巡らされ数多くの櫓や門を備えていたが、1600(慶長5)年の関ケ原の戦いで西軍(石田三成)の城になった際は、東軍(徳川家康)に攻められ再び落城。その後1636(寛永12)年に戸田氏鉄が入城すると、以降は江戸時代を通して戸田家の居城となり、大垣のまちは繁栄した。

明治時代に出された廃城令後も大垣城の天守は取り壊されることなく国宝にも指定されていたが、1945(昭和20)年の大垣空襲により焼失。現在の天守は1959(昭和34)年に再建された外観復元天守で、2010(平成22)年の改修工事によって元の姿により近い佇まいとなっている。また、東門として移築された旧柳門も、本来の姿を今に残す遺構としてぜひ見ておきたい。

余談だが、同じ岐阜県内の郡上八幡城の天守は戦前に現存していた大垣城天守を参考に建てられた「日本で一番古い木造“模擬天守”」。木造天守の内部の雰囲気は往時を思わせるもので、かつての大垣城を偲ぶ目的で訪れてみるのも一興である。

大坂城―おおさかじょう― 重文

所在地/大阪府大阪市中央区大阪城
築城年/1583(天正11)年、1620(元和6)年
築城者/豊臣秀吉、徳川秀忠
天守建造年/1585(天正13)年
復元天守建造年/1931(昭和6)年

城パーツ/復興天守-ふっこうてんしゅ-(肆)

太閤秀吉の城が地底に眠る、日本一の巨城

大坂城は、いうなれば羽柴秀吉・天下取りの決意表明の城。清州会議にて本拠の長浜城を柴田勝家に譲ると、翌年築城に着手した。立地として秀吉が目をつけたのは、浄土真宗本願寺派の本拠地・石山本願寺の跡地。長年織田信長との攻防を続けていたこの寺院跡はもとより巨大な城郭となっており、秀吉は小高い丘になったこの場所に、上・中・下段から成る3段構成の平山城を築いた。本丸と天守をわずか1年半で完成させた後も、秀吉は城の造成を継続。曲輪や本丸御殿を築いて壮大な惣構(そうがまえ)を構築し、織豊系城郭の集大成ともいえる権力や財力を“見せる城”を15年かけて完成させた。

しかし秀吉の築いたこのメガキャッスルは、現在地上で見ることはできない。なぜなら今目にする大坂城(大阪城)は、豊臣氏の滅亡後に江戸幕府が埋め立て建て直したものだからである。秀吉の死後、関ケ原の戦いを経て徳川家康が江戸に幕府を開くが、1614(慶長19)年、大坂城にて健在であった秀吉の子・秀頼との間に大坂冬の陣が勃発。難攻不落の大坂城を攻略するため、家康は城の惣構や総堀を破却し、翌年の夏の陣でついに落城させる。この際に天守は焼失し、城は徹底的に破壊されてしまった。

とはいえ、徳川の時代になっても豊臣時代の縄張り自体はほぼ活かされ、門や櫓等の名称もそのまま継承されている徳川大坂城。1620(元和6)年、二代将軍・徳川秀忠の時代に再建工事が始まり、本丸の周囲を11棟もの三重櫓と多門櫓で囲んだ、豊臣大坂城をさらに巨大にした前代未聞のギガキャッスルを築き上げたのだ。

特に注目すべきは本丸の30m超の高石垣で、巨石を積み上げた算木積みは他に類を見ない壮大さ。この上に建てられた望楼型の5重6階地下2階の天守は、1665(寛文5)年の落雷で焼失してしまったが、1931(昭和6)年に鉄筋コンクリートの5重8階の天守が復興天守第1号として再建された。なおこの天守は「大坂夏の陣図屏風」に描かれた豊臣時代の漆黒の望楼型天守をモデルにしているが黒壁ではなく、全体としては徳川風の白壁に変更されている。市民の寄付金により再興されたその佇まいは非常に華やかで、黒漆の上に金色で描かれた鶴や虎も目を引くもの。天下人の城にふさわしい威容を、今に伝えている。

今後のラインナップ

大洲城(おおずじょう)復元天守
大多喜城(おおたきじょう)模擬天守
岡山城(おかやまじょう)外観復元天守
忍城(おしじょう)復興御三階櫓
小田原城(おだわらじょう)外観復元天守

掛川城(かけがわじょう)月山日和城(がっさんひわじょう)金沢城(かなざわじょう)上山城(かみのやまじょう)唐津城(からつじょう)川島城(かわしまじょう)岸和田城(きしわだじょう)岐阜城(ぎふじょう)清州城(きよすじょう)久保田城(くぼたじょう)熊本城(くまもとじょう)高知城(こうちじょう)甲府城(こうふじょう)小倉城(こくらじょう)島原城(しまばらじょう)白河小峰城(しらかわこみねじょう)白石城(しろいしじょう)諏訪高島城(すわたかしまじょう)関宿城(せきやどじょう)高崎城(たかさきじょう)高田城(たかだじょう)高松城(たかまつじょう)竹田城(たけだじょう)津城(つじょう)土浦城(つちうらじょう)鶴丸城(つるまるじょう)富山城(とやまじょう)中津城(なかつじょう)長浜城(ながはまじょう)名古屋城(なごやじょう)西尾城(にしおじょう)二条城(にじょうじょう)二本松城(にほんまつじょう)延岡城(のべおかじょう)浜松城(はままつじょう)彦根城(ひこねじょう)備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)姫路城(ひめじじょう)弘前城(ひろさきじょう)広島城(ひろしまじょう)福岡城(ふくおかじょう)福山城(ふくやまじょう)府内城(ふないじょう)松江城(まつえじょう)松前城(まつまえじょう)松本城(まつもとじょう)松山城(まつやまじょう)丸岡城(まるおかじょう)丸亀城(まるがめじょう)水戸城(みとじょう)村上城(むらかみじょう)盛岡城(もりおかじょう)山形城(やまがたじょう)大和郡山城(やまとこおりやまじょう)米子城(よなごじょう)和歌山城(わかやまじょう)

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