本ページは、築城系マージャンカードゲーム「シロブシン」に登場する72城を紹介するコーナーです。あの城この城にさらに詳しくなって、知識においても「城武神」を目指してみてください。各お城の紹介記事は、50音順で、日々更新していきます。本ページでは「さ行」と「た行」の城をご紹介。
島原城―しまばらじょうー
所在地/長崎県島原市城内
築城年/1618(元和4)年
築城者/松倉重政
天守建造年/1625(寛永2)年
復元天守建造年/1964(昭和39)年

大阪の陣後に築かれた、稀有な城郭
有明海を望む雲仙岳の麓に位置する平山城。大阪の陣の戦功により、1616(元和2)年に松倉重政が入封し、一国一城令に従って原城と日野江城を廃して築城に取り掛かった。このように徳川政権下にて外様大名が幕府より新規築城の許可を得て築城すること、ましてや天守まで建造するのは極めて異例である。重政は領民から過酷な搾取を行い、約7年の歳月をかけて4重5階の唐造りの天守や3重櫓が聳える豪壮な城を完成させた。
しかし築城後も領民への重税は続き、さらにはこの地域に多く存在したキリシタンの弾圧を行ったことから、島原の乱が勃発する。その責で二代目城主の勝家は斬首され、松倉氏は断絶。乱の鎮圧後は高力氏や松平氏等の譜代大名が入城し、1874(明治7)年まで城は存続した。
廃城後に天守は破却されているため、現在の天守は1964(昭和39)年に諸資料や絵図を元に復元されたもの。ただし古写真はなく絵図とも形状や規模が異なるため、復興天守に位置づけられる。
縄張りは本丸、二の丸、三の丸を一直線上に配した連郭式の単調なもので、本丸と二の丸のみを内堀で囲み、外郭は石垣を巡らせてある。石垣の現存率は高く、幾重にも屈曲した石垣は、江戸軍学の影響を受けた造りである。
白河小峰城―しらかわこみねじょう―
所在地/福島県白河市郭内
築城年/興国年間(1340~46年)、1629(寛永6)年
築城者/結城親朝(ゆうきちかとも)、丹羽長
天守建造年/1632(寛永9)年
復元天守建造年/1991(平成3)年

壮麗な総石垣を持つ、東北三名城の一つ
奥州三古関の一つに数えられる要衝地、阿武隈川に守られる丘陵地に建つ城で、江戸時代の老中、松平定信が藩主を務めたことでも知られる。古くは南北朝時代に結城白川氏によって城が築かれ、1590(天正18)年、豊臣秀吉の奥州仕置きの際には会津を支配した蒲生(がもう)氏や上杉氏によって城代が置かれた。江戸時代に入ると1627(寛永4)年、丹羽長重が入封し、白川藩の居城に。丹羽氏によって阿武隈川の流れを付け替える大工事が行われ梯郭式の縄張りが築かれている。
東北では珍しい総石垣の城で、表側が切込接、裏側が打込接の急勾配が特徴。こうした石垣の技術は、織田・豊臣系の外様大名によって東北地方にも広まっていった。また天守は持たず、本丸北東隅にあった「三重御櫓」と呼ばれる複合式層塔型、3重3階建ての櫓が代用天守としてシンボルに。1868(慶応4)年の戊辰戦争の際に落城し、この際三重櫓も焼失するが、1991(平成3)年、古図や発掘調査を元に戦後の木造復元天守の第1号として再建された。
2011(平成23)年の東日本大震災では、御三階櫓の倒壊は免れるも、10カ所にわたって石垣が崩落。しかし完全復興に向けて懸命な工事が行われ、2019年には石垣の復旧が完了して復興の象徴になっている。
白石城―しろいしじょう―
所在地/宮城県白石市益岡町
築城年/1591(天正19)年
築城者/蒲生郷成(がもうさとなり)
天守建造年/1823(文政6)年
復元天守建造年/1995(平成7)年
別名/益岡城、桝岡城

片倉景綱の偉業を伝える特赦の城
元は伊達政宗の勢力下にあったが、豊臣秀吉の奥州仕置きにより没収。1591(天正19)年、蒲生氏郷(うじさと)の家臣である蒲生郷成によって築城された。その後1600(慶長5)年、関ケ原の戦い前に再び政宗が奪い返し、その重臣である片倉小十郎景綱が城主となる。
特筆すべき点は、この城が、江戸幕府が1615(元和元)年に発布した一国一城令の例外として認められていること。景綱は「国家の大器」とも称された政宗の右腕で、白石城は仙台城の支城として重要な役割を果たし、1874(明治7)年の廃城令で破却されるまでの約260年間、片倉氏の居城として存続した。
標高76mの最頂部に複数の曲輪を配した梯郭式の平山城で、本丸は高さ約9mの石垣の上を土塁で囲み、大櫓に仙台藩主が宿泊する御成御殿、政庁となる表御殿、城主・片倉氏の私邸となる奥向御殿の3つの御殿が本丸全面に造営されている。特に大櫓(三階櫓)は天守に匹敵する規模感だったが、主家である伊達家と江戸幕府への配慮から、敢えて「大櫓」と称されていた。
破却後は一時更地となったが、片倉景綱の偉業を称えて1995(平成7)年、120年ぶりに大櫓を木造復元。大櫓は1823(文政6)年に焼失していたが、様々な文献や資料、発掘調査を元に、可能な限り忠実に復元した。大櫓に加えて大手二門も木造で復元されている他、三の丸外堀の片倉家中の武家屋敷も必見!
諏訪高島城―すわたかしまじょう―
所在地/長野県諏訪市高島
築城年/1592(天正20/文禄元)年
築城者/日根野高吉
天守建造年/1598(慶長3)年
復興天守建造年/1970(昭和45)年
別名/諏訪の浮城、島崎城

眉目秀麗“日本三大湖城”の一つ
島根県の松江城、滋賀県の膳所城(ぜぜじょう)と並び、「日本三大湖城」の一つに数えられる水城。諏訪湖に突き出るように建てられたその姿から「諏訪の浮城」と呼ばれた。ただし江戸時代の初めに周辺が干拓されたため、水城としての面影は失われている。築城者の日根野高吉は美濃の出身で、織田信長や豊臣秀吉の下で何度も城の普請に携わってきた人物。築城に加えて城下町の上諏訪形成や検地の実施等、高島藩政の基礎を整えた。
城は曲輪が北側から一列に並ぶ連郭式で、総石垣造り。複数の櫓や門に加え、本丸には独立式の3重5階建ての望楼式天守を備えた堂々たる佇まいだった。ただし先述のように干拓地に建つ軟弱な地盤のため、木材を筏状に組んだ上に石を積む等の工夫が施されており、天守も重量を軽減するために檜の薄板を葺いた杮葺(こけらぶき)が用いられている。
なお築城時の天守は明治の廃城令で取り壊されており、1970(昭和45)年に外観復元された現在の天守は、元の建築とは窓や屋根等もやや異なる(復興天守)。現在は天守の他、櫓や門、塀等も復元されており、往時の風情を今に伝えている。
関宿城―せきやどじょう―
所在地/千葉県野田市関宿
築城年/1457(長禄元)年
築城者/簗田成助(やなだしげすけ)
復興天守建造年/1995(平成7)年

利根川水系を制す、関東の要
1457(長禄元)年、古河公方(こがくぼう ※関東足利氏の当主及びその体制)の足利成氏(しげうじ)家臣である簗田成助が築城したと伝わる。利根川水系の水陸交通の要衝地にあり、古河公方にとっても重要な拠点だった。それは関東地方で絶大な権力を持つ北条氏にとっても同様で、関東の制圧を目論む北条氏康はこの関宿城を熱望して3度にわたって攻撃、やがて支配するようになる。その後北条氏が豊臣秀吉に敗れると、関東へ国替えとなった徳川家康にこの城が与えられ、異父弟の松平康元が初代城主に。以後、明治時代に廃城となるまで徳川譜代の家臣がこの城に配された。
城の縄張りは康元によって行われたと考えられており、利根川と江戸川を天然の堀として、北端に本丸、その南に二の丸、東に三の丸を配した造り。ただし川の分岐点にあるため河川の氾濫や改修工事の影響で本来の城域の多くが削られてしまっており、正確な城域は分かっていない。代用天守として御三階櫓が建てられていたが、1671(寛文11)年に焼失。その後入城した久世広之(くぜひろゆき)が江戸城の富士見櫓を模した御三階櫓を再建し、こちらを代用天守にしたと伝わる。
現在の天守は、千葉県立関宿博物館として1995(平成7)年に建てられた模擬天守。当時の本丸とは別の場所に再建されている。
高崎城―たかさきじょう―
所在地/群馬県高崎市高松町
築城年/室町時代中期、1598(慶長3)年
築城者/和田義信、井伊直政

井伊直政が手掛けた“関東の平城”
中世の和田城跡を利用して1598(慶長3)年に徳川家康の重臣・井伊直政が築城した、関東屈指の巨大平城。家康は中山道と三国街道の分岐に位置する高崎を重要視し、監視用の城として直政に築城を命じた。
烏川を背にした後堅固の構えで、本丸の前面に二の丸、その外側に三の丸を配した梯郭式の縄張り。特に長さ約1,400m、幅約15~16mにも及ぶ三の丸の水堀は壮観!また、三の丸を囲むように逆コの字型に残る土塁は、高さ2~2.5m程あってこちらも見応えがある。このように直線的な土塁を持ち、曲輪が四角く人工的な構造物のみで防御する構造は、典型的な関東地方譜代大名の平城の造り。天守は持たず、本丸の西辺土塁上には天守の代用として御三階櫓が、四隅には二重櫓が配されていた。
複数ある構造物の中でも、現存の本丸乾櫓は必見!1階と2階が同じ大きさの重箱櫓と呼ばれる形式で、これは日本で2棟しか残っていない非常に貴重な遺構である。また、桁行3間、梁間2間と、二重櫓として現存最小の櫓である点も特筆すべきポイントといえる。
本丸、二の丸は完全に市街地となっているため遺構が残っていないが、発掘調査によって二の丸の堀内に堀障子が設けられていたことが確認されている。また、乾櫓の脇に移築されている三の丸東門も要注目。城門としては珍しい長屋門で、こちらも稀少価値が高い。
高田城―たかだじょう―
所在地/新潟県上越市本城町
築城年/1614(慶長19)年
築城者/松平忠輝(ただてる)
復興天守建造年/1993(平成5)年
別名/鮫ヶ城

伊達政宗が縄張りした天下普請の城
大坂冬の陣の直前である1614(慶長19)年、徳川家康の六男・松平忠輝のために天下普請で築城。普請には前田利常、上杉景勝ら13名の大名が任命され、普請総裁には忠輝の舅である伊達政宗が就任した。大坂の陣の直前ということもあり、築城期間はわずか4カ月という短さ。約230m四方の本丸の周囲には、北の丸、二の丸、三の丸が配置され、その周囲を流れる青田川や関川を外堀代わりに利用していた。
急ごしらえのため天守はなく石垣も積まれていないが、縄張りの全てを土塁で築いている点は、ぜひ注目したいポイント。また、平野に築かれた平城の弱点を克服するために巡らせた水堀は日本屈指の広大さで、まるで湖のような趣を持つ。
明治時代に起きた火事と廃城令のため、櫓や城郭は全て失われたが、平成になってから三重櫓と極楽橋を再建。代用天守であった三重櫓は、柱を見せた旧式の外観に模擬復元されている。ちなみにこの三重櫓にも石垣はなく、基礎石の上に直接建てられている。
高松城―たかまつじょう― 重文
所在地/香川県高松市玉藻町
築城年/1588(天正16)年、1671(寛文11)年
築城者/生駒親正(いこまちかまさ)、松平頼重(よりしげ)
別名/玉藻城

瀬戸内海に面した“日本三大海城”
豊臣秀吉より讃岐一国を賜った生駒親正の築城。お家騒動による生駒氏の改易後は、四国初の親藩大名・水戸徳川家の松平頼重(水戸光圀の兄)が入城し、四国支配の拠点とした。この際、松平氏は特例で北の丸や天守を増改築している。
高松城は完全に海に面した水城で、水手御門(現存)から直接海に出ることができる構造。二の丸、三の丸、桜馬場に囲まれた広い内堀の中央に、小島のような趣で本丸が築かれた。本丸にはかつて3層4階建ての南蛮造りの天守が聳えており、現在は復元された天守台がその威容を今に伝えている。
城内には4棟もの櫓が現存しており、海側には瀬戸内海を監視する3重3階の月見櫓と、北の丸から直接海へ出られる先述の水手御門がある。藩主はこの門から小舟で乗り出し、沖で御座船に乗り換えた。一方、太鼓櫓跡にある艮櫓(うしとらやぐら)は、元々東の丸の艮(北東)にあった櫓を移築したもの。移築される前は櫓台から張り出して建っていたため3隅に石落が設けられており、鉄砲狭間や急傾斜の破風等を備えた佇まいは非常にいかめしい。この他にも、日本で唯一現存する筋違橋の旭橋等、この城にしかない特徴が随所にあり、見ごたえ抜群の城である。
城パーツ/現存東ノ丸艮櫓-げんぞんひがしのまるうしとらやぐら-(弐)
竹田城―たけだじょう―
所在地/兵庫県朝来市和田山町竹田字古城山
築城年/1431(永享3)年、1578(天正6)年、1592(文禄元)年
築城者/山名持豊(もちとよ)、羽柴秀長(はしばひでなが)、斎村政広(さいむらまさひろ)
別名/虎臥城

雲に浮かぶ、日本のマチュピチュ
日本でも数少ない近世山城の一つで、築城は応仁の乱の西軍大将・山名持豊(宗全)といわれる。1577(天正5)年には羽柴秀吉の攻撃を受け落城し、その後数年は秀吉の弟・秀長が城代を務めた。標高353mの虎臥山の山頂に、山城ならではの縄張りと石垣が融合した稀少な造りで、一直線上にずらりと並ぶ総石垣の曲輪群は壮観!建物がなく大石垣群が織りなす雄大な景観は「日本のマチュピチュ」とも称され、そのフォトジェニックなビジュアルも人気の理由である。
中央に天守台を設けて南北両翼の尾根城に曲輪を階段状に配置し、これら全てを石垣で構築した構造は、織豊系城郭の最高地点というにふさわしい姿。天守台の石垣は山麓の城下から見上げると正面にあたり、織豊系城郭の“見せる城”を体現すると同時に、改修の歴史を今に伝えている。
また近年、竹田城を一躍有名にしたのが雲海に浮かぶ「天空の城」としての一面。特に竹田城東側の朝来山中腹・立雲峡等がビュースポットとして知られており、晩秋の昼と夜の気温差が大きい晴れた日の早朝に、雲海を見られる確率が高い。雲に浮かぶ“石垣だけの城”の威容は古代遺跡のように神秘的。竹田城はこうした「雲海+山城遺構」の魅力を広く知らしめた、先駆け的存在であるともいえる。
城パーツ/天守台石垣-てんしゅだいいしがき-(石)
津城―つじょう―
所在地/三重県津市丸之内
築城年/1570~73年(元亀年間)、1608(慶長13)年
築城者/織田信包(のぶかね)、藤堂高虎
別名/安濃津城(あのつじょう)

築城名人の技が光る、高虎式城郭
伊勢国の中心地として中世以前より栄えた要衝地・津を治めた城。この地は元々「安濃津」と呼ばれ、「日本三津」の一つとして海外にも知られる良港だった。織田信長の伊勢侵攻を機に弟の織田信包が築城し、秀吉の時代になると富田一白が、さらに家康の時代になると藤堂高虎が入封。築城名人として知られる高虎は城の大改修を行い、近世城郭へと整備した。
建物は現存しないものの「高虎式」の城の代表格ともいえる城であり、その造りは名古屋城のモデルにも。縄張りは方形の本丸の東西に馬出し機能を持つ小曲輪を配し、全長100mにも及ぶ巨大な内堀が巡る構造を持つ。高さのある立派な石垣は切込接で、反りのない直線的な高石垣は高虎らしい石垣技術を存分に感じられる。
また本丸南西隅の天守台も残っており、富田氏の時代は天守があったとされる。しかし高虎の時代には建物は築かれず、そのまま明治の廃城時まで存続した。なお1958(昭和33)年本丸東鉄門桝形の多門櫓跡に復元された隅櫓は、場所も外観も当時とは異なる模擬櫓。石垣が現存する天守台や本丸・西の丸はお城公園として整備されており、在りし日を偲ぶことができる。
土浦城―つちうらじょう―
所在地/茨城県土浦市中央
築城年/15世紀前半、1600(慶長5)年
築城者/若泉三郎、松平信一
別名/亀城

難攻不落で知られる土浦藩居城
室町時代に築かれ、戦国期には小田氏の逃げ込み城として用いられた沼沢地に建つ平城。上杉氏や佐竹氏による幾度とない攻撃で本城の小田城は何度も落城しているが、土浦城が落ちることは一度もなかった。その重要性は近世になっても変わらず、引き続き土浦藩の居城として存続することになる。
土浦城が近世城郭として改修されたのは、1600(慶長5)年、松平信一が入封したタイミング。この際に外郭の西、北、南門が整備され、続く西尾忠永の時代には本丸の西・東櫓を造営、さらに大手門が櫓門に建て替えられた。縄張りは何重もの堀を重ね、要所要所に馬出を配置するなど、平城としてはかなり技巧的である。また1685(貞享2)年に松平信興によって行われた改修は甲州流軍学に基づくものと伝えられており、土塀の塁線は横矢を掛けるためにジグザグの形状をしている。
市街地化によって遺構の多くは失われているが、本丸と二の丸の一部は亀城公園として整備され、市民の憩いの場に。城址には現存の太鼓門の他、復元された二基の二重櫓(東櫓・西櫓)がある。
鶴丸城―つるまるじょう―
所在地/鹿児島県鹿児島市城山町
築城年/1602(慶長7)年
築城者/島津家久
別名/鹿児島城

名門・島津家の広大な御殿
関ケ原の戦いの後に徳川家康に所領を安堵された、島津氏の本城として築城を開始。以後、明治に至るまで同氏の居城として存続した。77万石の大名の城にしては、その構造はいたってシンプル。城山の山麓部に方形の本丸と二の丸を連結して構え、本丸部分に堀を巡らせたのみで、天守や多重櫓、高石垣等は造られなかった。ただし本丸内には広大な御殿が設けられていることから、城郭というよりも藩主の居館としての色合いが強い。
現在残っている石垣は、近世に切り石を整然と積み上げた切込接。東北隅の出隅を欠いた切り欠きは、鬼門除けとしているためである。また、本丸御門は桝形虎口となっており、簡素ながらも有事への備えが見て取れる。
背後に聳える城山は籠城のための詰城で、国史跡にも指定。西南戦争最後の舞台として知られており、西郷隆盛が立てこもった地としてあまりにも有名である。戦場となった鹿児島城の石垣には、今も多数の弾痕が生々しく残っており、銃撃戦の凄まじさを物語っている。
城パーツ/本丸石垣-ほんまるいしがき-(石)
富山城―とやまじょう―
所在地/富山県富山市本丸
築城年/1543(天文12)年、1581(天正9)年
築城者/神保長職(じんぼうながもと)、佐々成政(さっさなりまさ)
模擬天守建造年/1954(昭和29)年
別名/安住城、浮城

時代ごとに役目を担った堅固な城
越中東部への進出を目指した越中守護代の神保長職が、家臣の水越勝重(みずこしかつしげ)に造らせたのが始まり。しかし富山は北陸街道と飛騨街道がぶつかる交通の要衝地であったため、この地に目をつけた上杉謙信によって長職は追われ、以後富山城では上杉氏と一向一揆との間で度々争奪戦が繰り広げられるように。信長と組んだ長職の息子・長住(ながずみ)がこの隙をついて再び入城するもすぐに失脚し、信長の重臣である佐々成政が城主となった。
佐々時代に富山城は近世城郭へと大改修が行われるが、成政が豊臣秀吉と対立したことから豊臣軍に包囲されて落城し、いったんは廃城となる。しかし江戸時代になると、加賀藩主の前田利常は次男・利次を分家させ、城を大修復。加賀藩の支藩として富山藩が成立し、以後城下町も栄えた。
神通川に浮いているような縄張りだったため「浮城」とも呼ばれており、改修時に築かれた天守台の痕跡が今もわずかに残る。しかし計画段階では建造予定だった天守や櫓は結局造られることなく、1858(安政5)年の飛越地震での多大な被害を受け、1871(明治4)年に廃城となった。
戦後は富山城址公園として本丸南側の堀と石垣が整備され、本丸桝形虎口の石垣の上には、三重の模擬天守が郷土博物館として建てられている。また2008(平成20)年には他所にて移築完成されていた千歳御門が再び寄贈によって公園内に移築。これは富山城唯一の貴重な現存建物である。
お城のラインナップ
会津若松城(あいづわかまつじょう)明石城(あかしじょう)安土城(あづちじょう)犬山城(いぬやまじょう)岩国城(いわくにじょう)上田城(うえだじょう)宇都宮城(うつのみやじょう)宇和島城(うわじまじょう)大垣城(おおがきじょう)大坂城(おおさかじょう)大洲城(おおずじょう)大多喜城(おおたきじょう)岡山城(おかやまじょう)忍城(おしじょう)小田原城(おだわらじょう)掛川城(かけがわじょう)月山日和城(がっさんひわじょう)金沢城(かなざわじょう)上山城(かみのやまじょう)唐津城(からつじょう)川島城(かわしまじょう)岸和田城(きしわだじょう)岐阜城(ぎふじょう)清州城(きよすじょう)久保田城(くぼたじょう)熊本城(くまもとじょう)高知城(こうちじょう)甲府城(こうふじょう)小倉城(こくらじょう)島原城(しまばらじょう)白河小峰城(しらかわこみねじょう)白石城(しろいしじょう)諏訪高島城(すわたかしまじょう)関宿城(せきやどじょう)高崎城(たかさきじょう)高田城(たかだじょう)高松城(たかまつじょう)竹田城(たけだじょう)津城(つじょう)土浦城(つちうらじょう)鶴丸城(つるまるじょう)富山城(とやまじょう)中津城(なかつじょう)長浜城(ながはまじょう)名古屋城(なごやじょう)西尾城(にしおじょう)二条城(にじょうじょう)二本松城(にほんまつじょう)延岡城(のべおかじょう)浜松城(はままつじょう)彦根城(ひこねじょう)備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)姫路城(ひめじじょう)弘前城(ひろさきじょう)広島城(ひろしまじょう)福岡城(ふくおかじょう)福山城(ふくやまじょう)府内城(ふないじょう)松江城(まつえじょう)松前城(まつまえじょう)松本城(まつもとじょう)松山城(まつやまじょう)丸岡城(まるおかじょう)丸亀城(まるがめじょう)水戸城(みとじょう)村上城(むらかみじょう)盛岡城(もりおかじょう)山形城(やまがたじょう)大和郡山城(やまとこおりやまじょう)米子城(よなごじょう)和歌山城(わかやまじょう)
シロブシンとは
「シロブシン」は「岐阜お城研究会」、ボードゲームカフェ「ひまつぶしスペース」監修のマニアックかつ本格的なお城がテーマのカードゲーム。築城ゲーム「城ジャン」と落城ゲーム「城ダツ」2つの遊び方を搭載しています。

