シロブシン・72城一覧(か行)

本ページは、築城系マージャンカードゲーム「シロブシン」に登場する72城を紹介するコーナーです。あの城この城にさらに詳しくなって、知識においても「城武神」を目指してみてください。各お城の紹介記事は、50音順で、日々更新していきます。本ページでは「か行」の城をご紹介。

【あ行のお城はコチラ】

掛川城―かけがわじょう―重文

所在地/静岡県掛川市掛川
築城年/1512(永正9)年、1590(天正18)年頃
築城者/朝比奈泰熙(あさひなやすひろ)、山内一豊(かずとよ)
復元天守建造年/1994(平成6)年
別名/雲霧城、松尾城

城パーツ/復元天守-ふくげんてんしゅ-(天)

山内一豊の出世城としても名高い城

元々は駿河の守護大名・今川義忠の重臣であった、朝比奈泰熙が築いた今川家の支城。戦国時代には東海道の支配を巡り何度も攻略対象となる重要拠点だった。後に徳川家の居城となるが、家康の関東移封後は豊臣政権下にて秀吉の直臣・山内一豊が入城。城を拡張して天守や惣堀を築き、近世城郭へと整備した。しかしこの最初の天守は1604(慶長9)年の大地震で倒壊。その後再建されるも、今度は1854(安政元)年の大地震で倒壊し、以降天守が築かれることはなかった。現在見ることができる3重4階の復元天守は、山内一豊が建てた高知城の天守をモデルに復元したもの。市民や地元企業の協力で実現した、戦後初となる木造復元天守である。

文化財の観点から着目すると、現存二の丸御殿は必見!幕末の安政東海地震で壊れるも1861(文久元)年に再建され、簡素な造りながら譜代大名の御殿の典型的な形式を今に伝える貴重な遺構である。また、三の丸から本丸に移築された太鼓櫓も、1854(安政元)年に再建された現存の建物なのでぜひ見ておきたい。

ちなみに山内一豊は、関ケ原の戦いの際には徳川家康に味方することを表明し、掛川城と領地を家康に献上。他の東海道周辺の大名もそれにならって徳川軍の通行を容易にしたため、この功績から一豊は土佐24万石を獲得。このことから一豊大躍進のきっかけとなった城としても名高い。

月山日和城―がっさんひわじょう―

所在地/宮崎県都城市高城町大井手
築城年/1331~1334年(元弘年間)
築城者/肝付兼重(きもつきかねしげ)
模擬天守建造年/1992(平成4)年
別名/高城城、兼重城

城パーツ/模擬天守-もぎてんしゅ-(参)

激しい争奪の舞台となった戦火の城

南北朝時代、肝付兼重が築いたと考えられている城で、当時は兼重本城と呼ばれていた。兼重はこの城に、南朝方から受けた錦の御旗を掲げて北朝の畠山軍と戦い孤軍奮闘するも、1339(延元4)年に落城。兼重が高山へ退いた後、日向守・畠山忠顕(はたけやまただあき)の領有となった。しかしこの城の争奪戦はここで終わったわけではなく、和田氏、島津氏、伊東氏…と、城主は目まぐるしく変わる。その後は都城の北郷忠相(ほんごうただすけ)が約半世紀かけて伊東氏を追い出し自らの居城に。戦国時代の終わりには島津家家臣・伊集院氏が領有したが騒乱はまだまだ終わらず、庄内の乱の後、再び北郷氏の所領となる。このように実に260年もの間、戦火に包まれ続けた波乱の城であったが、1615(元和元)年に一国一城令が出されると廃城になった。

城の広さは4ha程。後方の台地から突出した要害の地に、空堀に仕切られた八城郭からなる。伊東八外城(とじょう)時代には、月山日和城を中心本城に、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城として配し、扇形の構えを構築した。

天守を持たない城だったが、1992(平成4)年に模擬天守が完成。犬山城を模した望楼型天守の内部は、高城郷土資料館となっている。

金沢城―かなざわじょう―重文

所在地/石川県金沢市丸の内
築城年/1580(天正8)年、1583(天正11)年
築城者/佐久間盛政、前田利家
主な城主/前田利常
別名/尾山城

城パーツ/復元橋爪門続櫓-ふくげんはしづめもんつづきやぐら-(天)

前田利家・加賀百万石のシンボル

金沢城が造られたのは、かつて加賀一向一揆の拠点にして浄土真宗の軍事拠点であった「尾山御坊」があった場所。織田信長がこれを攻め落とすと、派遣された佐久間盛政がここに築城。盛政は秀吉に滅ぼされるも、その後入城した前田利家が大規模な改修や拡張を行い、加賀百万石の礎を築いた。

金沢城の魅力は、美しい城に戦への備えが巧みに散りばめられていること。まず注目すべきは現存の石川門。ここはかつての搦手(裏門)にあたり、監視用の二重櫓を備えた内桝形門に。鉛瓦葺や海鼠壁(なまこかべ)が特徴で、唐破風(からはふ)の出窓型石落しも必見!高麗門の一の門、櫓門の二の門と併せて構成された門は複雑かつ厳重で、現在見られる桝形においても屈指の造りを持つ。また、重要文化財の三十間長屋は1858(安政5)年に再建された多門櫓で、2層2階の倉庫と防護壁兼用となっている。さらには2001(平成13)年に復元建築された菱櫓・五十間長屋、橋爪門続櫓、同じく2010(平成22)年に復元建築された河北門もじっくり見ておきたいところ。これらは史料に基づいて忠実に造られており、往時の姿が現代に蘇ったかのような威容を肌で感じられる。ちなみに、先述の鉛瓦は寒さの厳しい北陸において凍結防止の効果があることに加えて、日光に当たると退色して白くなるという特徴が。これもまた実用性と美観を兼ね備えた金沢城ならではで、白く輝く屋根が城の壮麗な美しさをより引き立てている。

前田利家の時代に五重天守が建てられた金沢城だが、1602(慶長7)年に焼失して以来、再建されることなく明治の世を迎え、今に至っている。

上山城―かみのやまじょう―

所在地/山形県上山市元城内
築城年/1535(天文4)年
築城者/武衛義忠
主な城主/最上氏、土岐頼行
天守建造年/不明
復元天守建造年/1982(昭和57)年
別名/月岡城

城パーツ/復元天守-ふくげんてんしゅ-(参)

最上氏の要塞でもあった“羽州の名城”

元は伊達家や上杉家と領土争いを繰り広げた最上氏の支城で、その中でも最南端に位置する要塞だった場所。しかし江戸時代になって最上氏が改易されると、藩主の変遷と共に領主も目まぐるしく変わった。本格的な繁栄は、1628(寛永5)年、下総(しもうさ)より土岐頼行が入封した際。頼行は城下町の整備に着手し、城も近世城郭へと大改築。本丸東側に天守代用の三重櫓、東南隅に二重櫓を建造して周囲は櫓門や水堀で囲み、その壮大かつ華やかな姿は“羽州の名城”と称えられた。1692(元禄5)年に土岐氏が転封されると天守(三重櫓)は解体されて廃城となるも、その後再興を果たして1873(明治6)年の廃藩置県まで存続している。

現在、本丸跡には月岡神社が建てられており、復興天守が築かれているのは二の丸跡。眺めも素晴らしい望楼型3重4階の天守は犬山城を参考に造られており、中は郷土資料館になっている。残念ながら築城時を偲ぶ遺構はあまり見られないが、本丸西側に内堀の一部が残っている。

唐津城―からつじょう―

所在地/佐賀県唐津市東城内
築城年/1608(慶長13)年
築城者/寺沢広高
模擬天守建造年/1966(昭和41)年
別名/舞鶴城

城パーツ/模擬天守-もぎてんしゅ-(肆)

唐津湾にそびえる九州最大の海城

唐津市街の北部に位置する平山城。築城した寺沢広高は元々豊臣秀吉の家臣で、関ケ原の戦いでは東軍についたため戦後に加増され、この城を築いた。平山城と言いつつ、唐津湾に接する満島山の上に建てられているため、城壁の大半が海に面したダイナミックな海城の様相。特に、海から直接そそり立つように積まれた本丸の腰曲輪の石垣は見応えがある。

築城にあたっては、既に廃城になっていた肥前・名護屋城を解体して使用。天守台も造られたが、幕府への遠慮からか名護屋城の天守は移築されず、結局廃城まで天守が築かれることはなかった。その後は度々城主が変わり、最終的には小笠原氏の居城として、明治の廃藩置県後まで存続している。

現在見ることができる天守は、1966(昭和41)年に観光のシンボルとして築かれた模擬天守。5層5階地下1階の複合式望楼型天守は鉄筋コンクリート造りで、天守の記録がないため「肥前名護屋城図屏風」の名護屋城天守がモデルとされる。また、五重構造であることに加え、白漆喰の壁や最上階の赤い高欄等、会津若松城の復元天守にもよく似ているといわれることも多い。

模擬天守とはいえ、5階の展望フロアからの景色は抜群。唐津湾や虹の松原等、360度のパノラマで絶景を楽しめる。

川島城―かわしまじょう―

所在地/徳島県吉野川市川島町城山
築城年/1572(元亀3)年
築城者/川島惟忠(これただ)
模擬天守建造年/1981(昭和56)年
別名/北の城

城パーツ/模擬天守-もぎてんしゅ-(肆)

要害堅固な“阿波九城”の一つ

吉野川沿いに建つ中世山城。元々この地は阿波守護の細川氏の支配下にあり、三好氏の重臣・篠原長房が上桜城を築いていた。しかし1572(元亀3)年、細川氏内部の争いで細川真之(さねゆき)に上桜城を攻められ落城。この戦いで功績のあった土豪・川島惟忠にこの地が与えられ、破壊された上桜城に代わって川島城が築城された。

その後しばらくは歴史の表舞台に出てこないものの、長宗我部元親の阿波侵攻や秀吉の四国征伐で幾度となく戦場になったと考えられている。1585(天正13)年、豊臣政権下で蜂須賀家政が入国すると、徳島城の支城である「阿波九城」の一つに数えられ、重臣の林能勝(よしかつ)が城代として入城した。しかし1638(寛永15)年、一国一城令によって廃城となり、破却されている。

天守のない城であったが、1981(昭和56)年、二の丸跡に勤労者野外活動施設として、観光用の模擬天守が誕生。望楼型の4重5階建てのなかなか立派な造りで、市のシンボルとしてそびえ立っている(※2019年4月より休館中)。

岸和田城ーきしわだじょうー

所在地/大阪府岸和田市岸城町
築城年/建武年間(1334~1338年)
築城者/和田高家(にぎたたかいえ)、小出秀政
天守建造年/1597(慶長2)年
復興天守建造年/1954(昭和29)年

城パーツ/復興天守-ふっこうてんしゅ-(天)

幾多の騒乱をくぐり抜けた波乱の城

建武新政期、楠木正成の一族で、鎌倉幕府討伐に功績のあった和泉の悪党・和田高家が築城したのが始まりと伝わる。その後領主となった細川氏や松浦氏の抗争、紀州の一揆衆との戦い等、岸和田城は常に戦火と共にその歴史を歩み続けた。羽柴秀吉の時代には、小牧長久手の戦いの舞台にも。この際、雑賀衆(さいかしゅう)に攻撃されるも城主の中村一氏(かずうじ)は城内に立て籠り、城を守り切った。

1585(天正13)年、紀州根来寺の討滅後、秀吉の叔父である小出秀政が城主に。本格的な城郭として整備されたのは彼の時代で、このとき5重5階の望楼型天守が完成した。その後岸和田城は大坂夏の陣でも騒乱の舞台となったが、落城することなく持ちこたえている。泰平の時代になった後も何度も城主の入れ替わりを経て、1640(寛永17)年に岡部宣勝が入城。以降明治維新まで岡部氏13代が岸和田藩を統治した。

幾度もの戦火に耐えた岸和田城だが、天守は1827(文政10)年に落雷のため焼失。明治維新の際には櫓や門等も破壊されたため、現存する構造物は堀と石垣のみとなっている。ちなみに現在の天守は1954(昭和29)年に再建された3層3階建ての望楼型復興天守。城はギャラリーやイベントの他、結婚式も挙げられる等、今は岸和田市の観光振興の拠点となっている。

岐阜城―ぎふじょう―

所在地/岐阜県岐阜市天主閣
築城年/1201(建仁元)年頃、1567(永禄10)年頃
築城者/二階堂行政、斎藤道三
主な城主/織田信長、池田輝政、織田秀信
天守建造年/不明(織田信長の時代?)
復興天守建造年/1956(昭和31)年
別名/稲葉山城

城パーツ/天守台石垣-てんしゅだいいしがき-(石)

「天下布武」を掲げた信長国盗りの拠点

鎌倉時代、御家人の二階堂行政が金華山(稲葉山)に砦を築いたことに端を発する岐阜城(稲葉山城)。この山に本格的な城郭を造ったのが「国盗り物語」の主人公“美濃の蝮”こと斎藤道三で、美濃統一の本拠とした。峻険な山城ながら幾度も落城の憂き目にあっており、1564(永禄7)年、龍興(道三の孫)の時代には、家臣の竹中重治(半兵衛)がクーデターを起こし、わずかな手勢で乗っ取りに成功。この際半兵衛はすぐに城を龍興に返したが、その3年後、尾張の織田信長が攻め込んで龍興を追放!ついに美濃を攻略し、城の名を稲葉山城から「岐阜城」と改めて天下統一の拠点とした。信長は岐阜城主時代に斎藤氏時代の中世山城を大々的に改修。山上には大規模な石垣に加え日本最古ともいわれる天守を建造しており、このことからも岐阜城は近世城郭の先駆け的存在といえる。

しかし1600(慶長5)年、関ケ原の戦いの前哨戦で落城すると、翌年には廃城が決定。徳川家康の命で山頂の天守や櫓等は加納城に移築された。時代は流れ、1910(明治43)年に3重3階の木造天守が復元されたが、第二次世界大戦中に焚火の不始末により焼失している。現在の天守は1956(昭和31)年に鉄筋コンクリートで再建された望楼型3重4階の復興天守。最上階から見下ろす広大な濃尾平野は、まさに天下布武の景色!信長がここから天下統一を目指したのも納得の絶景を拝める。

近年、長期スパンでの発掘調査の実施及び復元整備が計画されており、“信長の城”を深掘りする上でも、今後の動向に期待が高まる城の一つである。

清洲城(清洲城)ーきよすじょうー

所在地/愛知県清須市朝日城屋敷
築城年/1405(応永12)年
築城者/斯波義重(しばよししげ)
主な城主/織田信長、織田信雄(のぶかつ)、豊臣秀次、福島正則
天守建造年/1586(天正14)年頃
模擬天守建造年/1989(平成元)年

城パーツ/模擬天守-もぎてんしゅ-(参)

数々の歴史の表舞台に登場する信長の城

室町時代、尾張や遠江、越前の守護であった斯波義重が築城。鎌倉街道と伊勢街道が交わる交通の要衝地である清須に、当初は守護所であった稲沢市の下津城の別邸として建てられたと伝わる。1476(文明8)年、下津城が戦乱により焼失したため守護所がこちらに移転したことで、清須が尾張の政治・経済・司法の中心地として栄えるようになった。

1555(弘治元)年には織田信長が那古野城(なごやじょう)から入城し、城を大改築。信長はこの城から今川義元との桶狭間の戦いや美濃攻略等に出陣しており、実質的に信長の天下統一足掛かりの城として機能する。信長亡き後は、後継者を決める「清須会議」もこの城で開催。三法師を擁立した羽柴秀吉が後継者争いに勝利したが、清州城は信長の次男・信雄が相続した。この際信雄は天守や書院、堀等を増築しており、東西1.6km、南北2.8kmに及ぶ過去最大の城塞都市に!しかし天守の構造等詳しい資料は今日には残されていない。

豊臣の時代になってからも、豊臣秀次、福島正則らが城主を務め、関ケ原の戦いの際は東軍最前線の城として重要な軍事拠点の一つになるが、1613(慶長18)年、名古屋城が完成すると廃城に。町の建物と機能を全て移転する「清須越」によって、尾張の政治・経済・司法の中心は名古屋へと移った。ちなみに名古屋城築城に際しては、取り壊された清州城の資材が活用されており、天守の古材で造られたといわれる名古屋城の西北櫓は「清須櫓」と呼ばれている。

現在の天守は旧・清洲町(現・清須市)の町制100年を記念して造られた模擬天守。望楼型の黒い天守は地域のシンボルである“平成の城”として親しまれている。

久保田城―くぼたじょう―

所在地/秋田市千秋公園
築城年/1603(慶長8)年
築城者/佐竹義宣(よしのぶ)
別名/矢留城

城パーツ/復興御隅櫓-ふっこうおすみやぐら-(壱)

堀と土塁を巡らせた、江戸時代の土の城

1602(慶長7)年、常陸(茨城県)から出羽国へ国替えとなった佐竹義宣が築いた平山城。その持ち味はなんといっても石垣も天守も築かず、幅の広い堀と壮大な土塁を巡らせた“土の城”であること。これは関東の城に多く見られる特徴で、天守を造らなかったのは財政的な問題や幕府への軍役奉仕、徳川幕府への遠慮等にも原因があると考えられている。義宣が居を移した後も普請は続き、1631(寛永8)年頃に完成した。

城内に唯一現存する建物は御物頭御番所。これは長坂門(二ノ門)の開閉と城内の警備等の役割を担っており、本丸正面の表門(一ノ門)は、絵図や文献、発掘調査等を元に木造で再建されている。また、本丸の北西隅に位置する御隅櫓は市制100周年を記念して復元されたもので、資料に基づき2階建ての建物の上に展望台が設けられている。

佐竹氏は元々水戸54万石を擁する全国第8位の大大名。関ケ原の戦いで西軍についたため秋田20万石へ減封されたが、関東の大名らしい特徴が表れたダイナミックな造りの城は見応えがある。

熊本城―くまもとじょう―重文

所在地/熊本県熊本市中央区本丸
築城年/1601(慶長6)年
築城者/加藤清正
主な城主/加藤氏、細川氏
天守建造年/1607(慶長12)年頃
外観復元天守建造年/1960(昭和35)年
別名/隈本城、銀杏城

城パーツ/外観復元天守-がいかんふくげんてんしゅ-(壱)

日本三名城に数えれる、加藤清正の傑作

始まりは室町時代、肥後の守護大名・菊池氏の一族である山田氏が築城した千葉城。その後、鹿子木親員(かのこぎちかかず)が改修して「隈本城(くまもとじょう)」と名を改めた。その後1587(天正15)年、この城に入城したのが九州征伐で功を挙げた佐々成政(さっさなりまさ)。しかしこれに対し肥後の国人は豊臣政権の反発から一揆を起こし、これを鎮められなかった成政は切腹させられてしまう。代わりに隈本城に入城したのが、賤ケ岳の七本槍の一人にして、築城の名手としても名高い加藤清正で、1601(慶長6)年から大天守・小天守等を築く大規模な改修を行い、名も「熊本城」に改めた。

明治時代になると西南戦争の舞台にもなり、新政府軍が籠城する熊本城を西郷軍が包囲。この際、天守や小天守等が原因不明の出火で焼失するも、西郷軍は落城叶わぬまま撤退している(※現在の天守はコンクリート製の外観復元)。そんな難攻不落の堅城だが、2016(平成28)年、震度7を観測した熊本地震では甚大な被害が及ぶ。屋根瓦が崩れ、石垣が崩落して…と、その傷跡は筆舌に尽くしがたい程だったが、2021年には復興のシンボルとして大天守・小天守が完全復旧。今後も数十年かけて修復作業は続く予定である。

数ある熊本城の魅力の中でも、まず注目したいのが石垣。上部に行く程急勾配に反り返る「武者返」の高石垣や、算木積が未完の時代に積まれた隅石の両端がへこむ「やせ石垣」等、石垣造りの達人・清正らしさが随所に光る。また、その縄張りの複雑さも特筆すべき点。くねくねと折れ曲がる道に、連続して設けられた櫓群は、今訪れてもの戦略的な意図と侵入の困難さを肌身で感じられるものとなっている。侵入者の前にそびえる高い石垣、侵入しても天守まではたどり着けない超堅牢な縄張り――難攻不落の城たる所以が、城一帯に息づいている。

高知城―こうちじょう― 現存天守 重文

所在地/高知県高知市丸ノ内
築城年/1601(慶長6)年
築城者/山内一豊
天守建造年/1749(寛永2)年
別名/鷹城

城パーツ/現存天守-げんぞんてんしゅ-(肆)

山内一豊が築いた、土佐を代表する名城

高知平野の中心部、大高坂山の山頂に築かれた平山城。南北朝時代には大高坂山城と呼ばれる城があったとされるが、土佐の豪族・大高山松王丸が南朝方について北朝の細川定禅(じょうぜん)と戦い1341(興国2)年に落城し、長い間廃城になっていた。その後、豊臣政権下で大名となった長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、代々の岡豊城(おこうじょう)に代わる新城を築くことを考え、大高山に白羽の矢を立てるが、水はけの悪さを理由に築城を断念、結局は桂浜近くに浦土城を築き本拠としている。

しかし元親の息子・盛親が関ケ原の戦いで西軍についたため長宗我部氏は改易に。それに代わり土佐24万石の大名となったのが、当時掛川城主であった山之内一豊である。一豊は浦戸城の立地が城下町の開発に向かないことから、再び大高坂山に注目。縄張りを根本的に見直すと山頂部を削平し、2年かけて山頂に本丸、北側に二の丸、東側に三の丸を配置、さらには周囲を水堀で囲む大工事を敢行した。

全体的に古めかしい造りの高知城には、創建当初は安土桃山様式の天守があったが、1727(享保12)年の大火災で焼失してしまう。現存する天守は1749(寛延2)年に再建されたもので、旧式の望楼型4重6階建て。これは古式ゆかしい一豊時代の天守を再現したからではないかと考えられている。

また、特に高知城の価値を高めているのが、現存天守に加えて現存本丸御殿を持つ唯一の城である点。御殿、櫓門、多門櫓等、本丸といった建造物15棟が完存しているのは日本広しといえどもこの城だけである。城内に残る石垣は無骨な野面積が中心だが、二の丸周辺には美しい打込接(うちこみはぎ)の石垣も。また貴重な長宗我部元親時代の古い石垣も露出展示してあるので、こちらもぜひ見ておきたい。

甲府城―こうふじょう―

所在地/山梨県甲府市丸の内

築城年/1593(文禄2)年、1706(宝永3)年
築城者/浅野長政、柳沢吉保(よしやす)
主な城主/浅野氏、徳川氏、柳沢氏
別名/舞鶴城

城パーツ/復元稲荷櫓-ふくげんいなりやぐら-(肆)

豊臣時代に築かれた江戸の牽制&防衛拠点

豊臣秀吉の時代、関八州包囲網の一つとして築かれた平山城。当時から江戸と西国を繋ぐ要衝地であった甲府に、秀吉は五奉行の筆頭でもある浅野長政を派遣。徳川家康が江戸から攻め上るのを牽制するため、総石垣の巨大な近世城郭を築いた。関ケ原合戦後は家康の9男義直をはじめ、将軍の一族が城主に。柳沢吉里の転封以降は幕府直轄となり、江戸防衛の最前線として機能するようになった。このように時代によって役割をガラリと変えつつも重要拠点であり続けた甲府城は、今もその見事な威容を楽しめる。

注目すべきは、やはり城を取り囲む石垣群と堂々たる佇まいの天守台。天守の建物については残念ながら資料が見つかっていないが、小高い丘の上に建つ台座は、築城当時のままの野面積の石垣が大規模に残っている。関ケ原合戦以前の石垣がこれほど大量に残る例は極めて珍しく、石垣を積む技術が未発達な時代ならではの無骨な天守台の形状を堪能できる。

現在は復元工事が進み、大手門や銅門等各所で木造再建が行われている甲府城。北東隅に建つ立派な稲荷櫓は艮櫓(うしとらやぐら)とも呼ばれ、切妻屋根と入母屋屋根の張出を備えた姿は、絵図や古文書、古写真等を元に2004(平成16)年に木造復元されたもの。ちなみに当時の稲荷櫓は、古写真等から明治初年まで残っていたことが分かっている。

小倉城―こくらじょう―

所在地/福岡県北九州市小倉
築城年/1587(天正15)年
築城者/毛利勝信
主な城主/毛利氏、細川忠興、小笠原氏
天守建造年/1610(慶長15)年
復興天守建造年/1959(昭和34)年
別名/勝山城、指月城(しづきじょう)

城パーツ/復興天守-ふっこうてんしゅ-(壱)

九州の玄関口にそびえる巨大天守

文永年間(1264~1274年)頃、緒方惟重(これしげ)によって、紫川河口西岸の丘に築かれた屋形が始まりとされる。壇ノ浦を臨み関門海峡を制するこの地は、元々陸海の交通や九州を抑えるための重要拠点。古くから多くの豪族たちの争奪戦の舞台となり、城主もめまぐるしく入れ替わった。

1587(天正15)年、豊臣秀吉の命で家臣の森勝信(後に毛利勝信と改名)が入城。しかし勝信は関ケ原合戦で西軍についたため改易となり、代わりに東軍で功績を挙げた細川忠興が城主となる。忠興は1602(慶長7)年頃より約7年の歳月をかけて城を大改修し、連結式層塔型の天守と総構の城郭を築いて城下町を整備した。小倉城は中心に本丸、北側に北の丸、南側に松の丸を置き、それらを囲むように二の丸、三の丸、さらには外郭を配した梯郭式平城。4重5階の天守と多門櫓から成る複合式天守は、破風を持たないシンプルな層塔型で、最上階が下の階より広く突き出た唐造り(南蛮造り)だった。

1632(寛永9)年に細川氏が肥後に移封されると、譜代の明石城主・小笠原氏が入城して幕末まで城は存続。しかし1837(天保8)年、火災により天守は喪失し、1866(慶応2)年の第二次長州征伐では自ら火を放ち、城は焼失した。

現在の鉄筋コンクリート製の天守が復興されたのは1959(昭和34)年のこと。大きな入母屋破風が飾られた望楼型天守となっているが、上述のように本来破風はなかった。城を巡る石垣は力強い野面積で、良好な状態の水堀・空堀と共に見応えがある。

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シロブシンとは

「シロブシン」は「岐阜お城研究会」、ボードゲームカフェ「ひまつぶしスペース」監修のマニアックかつ本格的なお城がテーマのカードゲーム。築城ゲーム「城ジャン」と落城ゲーム「城ダツ」2つの遊び方を搭載しています。

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