【9・10月号】関ケ原古戦場を歩く④東軍布陣編

2022年9・10月合併号の巻頭特集「バトル・オブ・関ケ原」。本誌で紹介しきれなかった各スポットの情報や未公開写真と共にお届けする連載シリーズです。今回は徳川家康率いる東軍の布陣に注目。なぜ東軍が勝てたのか、その理由を見ていきましょう。

☆各スポットの位置関係は下記マップ参照。

コチラもcheck
関ケ原古戦場を歩く①
関ケ原古戦場を歩く②
関ケ原古戦場を歩く③

いざ先陣!抜け駆けをした理由とは?
松平忠吉・井伊直政陣
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関ケ原古戦場を歩く③の開戦地の項でも紹介している通り、戦の始まりはこの2人の抜け駆け。徳川四天王の一人であり、徳川家康の四男・松平忠吉の舅でもある井伊直政は、徳川家が先陣を切るべきと考えたのです。福島隊の可児才蔵が咎めますが、直政は初陣の忠吉に合戦の見分をさせると振り切って宇喜多秀家隊に発砲。血気盛んな活躍を見せた両者は、島津の退き口(※③参照)でも果敢に追撃しますが反撃を受けて負傷し、2人共後にこの際の傷が原因で亡くなったとされています。

実際の布陣地はこの碑より約200m東方と言われています。

先陣を奪われるも、粘りの大活躍!
福島正則陣跡
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東軍の先鋒として約6,000の兵を率い“魚鱗の陣”の最先端に布陣しながらも、先陣を奪われた福島正則。しかし実は彼の東軍への参戦自体が、家康の勝利を決定づけたといっても過言ではありません。というのも秀吉子飼いの福島正則は、豊臣恩顧大名の代表格だから。その彼が三成の挙兵を彼個人の策謀として「家康に味方する」と宣言したことで、多くの武将が東軍に付く結果となったのです。

井伊隊に先陣の功を許したとはいえ、福島隊はさすがの勇猛果敢な働きっぷり。西軍最大勢力・数に勝る宇喜多隊に攻めかかると一時押されるも持ちこたえ、最終的には突き崩します。現在福島正則碑が建っているのは春日神社内。

ここにある大杉(右側、推定樹齢800年)は関ケ原合戦屏風図にも描かれており、歴史の生き証人ともいえる存在です。

実は重要な内通も担っています
藤堂高虎・京極高知陣
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福島正則陣跡から「藤堂高虎・京極高知陣跡」の案内に沿って歩いて行くと導かれるのは、なんと学校…?そう、このお2人の陣跡は関ケ原中学校内にあります。

2人の名前は③の大谷吉継の項にもちらっと登場しているものの、関ケ原の戦いの主要メンバーとして語られることは比較的少な目。しかし藤堂高虎、実は関ケ原の勝敗を左右する調略に関わっている重要人物です。裏工作で最も有名なのは黒田長政が内通した小早川秀秋ですが、藤堂高虎が内通していたのは、大谷隊の指揮下にあった脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の4将。秀秋に対しては善戦していた大谷隊でしたが、この4隊の寝返りには耐えきれずに壊滅。これが西軍の総崩れに、ひいては東軍の勝利に繋がりました。

寝返りで大谷隊を壊滅に導く
脇坂安治陣
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その寝返り4隊の陣は、小早川秀秋が布陣する松尾山の麓。

道しるべに沿って歩いていくと、賤ケ岳七本槍の一人にも数えられた脇坂安治の陣跡が、ひっそりと建っています。

上記の通り秀秋の寝返りは大谷隊も予測しており何度も突き返したのですが、寝返り4隊が狙ったのはその側面。小早川隊に全面集中してがら空きになったところに攻撃を仕掛け、大谷隊を壊滅させました。ちなみにこの中で唯一、脇坂のみ内通をあらかじめ明らかにしており、合戦後は唯一本領を安堵されています。

軍監として参陣、後半には参戦も
本田忠勝陣
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徳川四天王の一人に数えられる猛将・本田忠勝。関ケ原の戦いには比較的後方に布陣し、伊勢街道の押さえや南宮山の西軍諸隊の牽制等の役割を担っていました。南宮山は動かないと見ると、桃配山から前進する徳川本隊の動きに合わせて自らも戦場へ。「島津の退き口」に際しては、井伊直政らと共に島津義弘の追撃を行っています。

陣跡があるのは十九女池(つづらいけ)の駐車場から西方へ、道しるべに沿って徒歩5~6分。

十九女池はスイレンの自生地・龍女伝説・新幹線撮影の名所等様々な顔を持つ美しい池です。当時の武将も見たであろう同じ池が今もこうして見られることにも、歴史情緒を感じますね。

南宮山の押さえとして後方に布陣
山内一豊陣
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織田信長、豊臣秀吉に仕えた山内一豊は、会津征伐の際に開かれた小山評定の際に、自らの居城・近江掛川城の供出を発言したことから、家康に高く評価されたと言われています。関ケ原の戦いでは、家康が最初の陣を置いた桃配山のさらに後方に布陣。南宮山の西軍諸隊の押さえとしての役割を担いました。

陣があるのは、松並木が美しい旧中山道・関ケ原宿(野上宿)を東方向に進んだ所。

実際に訪れてみると、体感的にも景色的にもかなり後方であることが分かりますが、一豊も家康が桃配山から陣場野へと本陣を勧めた際、共に前進しています。

東軍への内通者が実はココにも
吉川広家陣
map ※上記ガイドマップ外

誰もが知る小早川秀秋の寝返りですが、関ケ原より東方の南宮山でも裏工作による動きが。そのキーパーソンが吉川広家という武将です。彼は西軍の総大将・毛利輝元(合戦時は大坂城)の従兄弟に当たり、関ケ原では毛利一族の軍権を握る重要人物。石田三成とは対立を深めており、東軍の勝利を確信していたことから黒田長政を通じて徳川家康に接近を図って不戦の密約を交わし、毛利家の所領安堵を画策したのです。

吉川広家は南宮大社を背に、毛利隊の前衛を固める位置に布陣。兵を動かさずに後方の毛利秀元の兵を封殺し、安国寺恵瓊ら西軍諸将の出陣を押しとどめました。

陣があるのは、朝倉山真禅院から歩いてすぐの場所。

朝倉山真禅院は739年創建の天台宗の古刹で、三重塔や県下最古といわれる梵鐘等が国の重要文化財に指定。境内からは垂井の町並みが見下ろせます。最上段部分がない現存の鉄塔は、関ケ原の戦いの際に長宗我部盛親(西軍)の陣営で煮炊きに利用されたからと言われています。

こうして陣を巡ってみると分かるのが、たった数時間の間に各人がそれぞれの正義はもちろん、様々な思惑の元でこの戦に参加していたということ。今は穏やかな景色が広がるこの場所で、そんな人間ドラマが繰り広げられていたというのもまた、歴史浪漫ですね。

町一帯がまるごと古戦場ともいえる関ケ原。実際に歩いて辿ってこそ見える兵どもの夢のあと、ぜひ感じてみてください。

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