【9・10月号】関ケ原古戦場を歩く③西軍布陣編

2022年9・10月合併号の巻頭特集「バトル・オブ・関ケ原」。2021年のぷらざの旅「NEO関ケ原」の際にもこちらのブログで古戦場巡りを紹介しましたが、連載追加でさらに深掘り。本誌で紹介しきれなかった各スポットの情報や写真も満載なので、特集の補足としてもお読みいただけると幸いです。

☆各スポットの位置関係は下記マップ参照。

※2016年9月号より転載

コチラもcheck
関ケ原古戦場を歩く①
関ケ原古戦場を歩く②

天下分け目の決戦はココが始まり
開戦地
map

開戦は雨が上がって霧が晴れ始めた午前8時頃。東軍の先鋒は福島正則と決められていましたが、これを不満に思う井伊直政が抜け駆け。自身が後見役を務める徳川家康の四男・松平忠吉に殊勲を立てさせるべく先陣を切りました。福島隊の可児才蔵が咎めますが、直政はその脇をすり抜けて宇喜多隊に向けて発砲。これに怒った福島正則も兵を前進させ、合戦の火蓋が切られました。

広く開けた現在の開戦地からの眺め。霧が晴れた瞬間、初めて互いの布陣が分かったと思われます。

さて、この開戦地のすぐ近くにあるのがこのお方の陣。

狼煙を上げて開戦を合図
北天満山 小西行長陣 map

約6,000の兵を率いて、北国街道と東山道(中山道)の間に位置する北天満山に布陣。小西隊は、井伊隊の発砲を見て戦闘開始の狼煙を上げました。小早川秀秋の寝返りによって西軍が総崩れになると小西隊も敗走、行長は揖斐川町春日方面へ逃れることに。堺商人であり、さらには熱心なキリシタンという異色の経歴を持つ行長は宗教上自害することができず、合戦4日後の9月19日に自首して三成と共に六条河原で処刑されました。陣跡は島津義弘陣跡(後述)から目と鼻の先。陣跡にある石碑からは、石田三成が布陣した笹尾山の様子もよく分かります。

西軍屈指の戦意で善戦!
南天満山 宇喜多秀家陣 map

豊臣政権の若き重鎮として五大老に任じられ、関ケ原の戦いでは約1万7,000と西軍最大勢力で南天満山に布陣。可児才蔵を先陣とする福島正則隊と激戦を繰り広げました。西軍でも屈指の活躍でしたが小早川秀秋の寝返りで総崩れに。秀家は激怒して秀秋との決闘を覚悟しますが、結局は伊吹山中に敗走。島津を辿って薩摩に落ち延びた後に八丈島に流され、この地で84年の生涯を終えました。

宇喜多陣へは案内に沿って林道の奥へ。天満神社の境内が陣跡となっています。
ここから案内に従って、大谷吉継の墓と陣へ。
藤古川を渡岸。往時の雰囲気をとどめていそうな雰囲気です。
しばらく進むと広域農道に出ます。

通りに出たら、まずは垂井城主・平塚為広碑へ。

平塚為広はここ藤川台に布陣し、病の大谷吉継に代わって前線の指揮を任されていた人物。寝返った小早川秀秋を追い返すも、大谷指揮下にあった脇坂安治ら4将も裏切ったため太刀打ちできず、討死しました。

関ケ原で唯一切腹した武将に
山中村 大谷吉継墓 map

関ケ原の戦いに参戦した武将の中でも高い人気を誇るのが大谷吉継。三成の親友であり、その友情から病におかされながらも西軍への参陣を決めました。

陣跡に行く前に、まずはお墓参りを。実は大谷吉継は、関ケ原の戦いにおいて唯一切腹した武将と言われているのです。決戦当日は後方で指揮を執り、藤堂高虎や京極高知らと戦った大谷隊。小早川秀秋の寝返りも読んで何度も押し返しましたが、脇坂安治らの寝返りには耐えきれず隊は壊滅、自刃します。家臣の湯浅五助がその首を埋め隠しますが、それを京極高刑(高虎の甥)に見つかってしまい、五助は自分の首を差し出すことを条件に吉継の首のありかを秘してほしいと懇願。高刑は頑なにこれを守り、後に藤堂家が大谷吉継の墓を建立したと伝えられています。

吉継の墓の横に寄り添うように建つ五助の墓。上記のエピソードを知ってから見ると、敵味方問わない互いへの敬意や絆がより深く感じられます。今もこうして供養の花が添えられているのも、感慨深いものがありますね。

小早川の寝返りを予見するも…?
山中村 大谷吉継陣
map

墓から道しるべに沿って歩いて行くと、程なくして現れる大谷吉継の陣跡。さらに進むと眺望地に辿り着きます。ここからは中山道や高速道路、鉄道等主要道路を挟んで小早川秀秋が兵を置く松尾山城が眼前に!

大谷吉継は戦の12日前にあたる9月3日に中山道を押さえるためにこの場に布陣していますが、ここから眺めると決戦当日は小早川秀秋をしっかりロックオンしていたことがはっきりと見てとれます。

さあ、西軍武将の紹介も終盤。関ケ原の戦いを語る上で避けては通れないのはこの方、有名エピソードと共に今に名を残す薩摩の勇です。

2番備えを任されるが1歩も動かず
島津義弘陣
map

石田三成隊の側面と北国街道の守りを任された島津義弘は、現在碑が建つ場所から北西250m程に位置する薩摩池付近に約1,600の陣を置きました。ところが島津隊は、三成側の無礼を理由に激戦のさなかも防戦一方、救援要請も拒否します。しかし戦い終盤に状況は一変。石田隊が崩れて敗走すると、西軍は島津隊だけ取り残されてしまうのです。孤立した義弘は討死を覚悟しますが、副将である甥の豊久に説得されて撤退を決意します。

陣跡には「関ケ原戦跡踏破隊」の名碑も。

関ケ原戦跡踏破隊は鹿児島県日置市の青少年によって結成され、関ケ原から大阪までの島津撃退路を踏破するもの。これまでの参加者の氏名等が記載されています。これが縁で日置市と関ケ原町は兄弟都市盟約を締結。木曽三川の治水工事といい鹿児島県とは歴史上深いご縁のある岐阜(※昭和46年鹿児島県と岐阜県は、全国初の姉妹都市盟約を結んでいます)。今に繋がるこうした結びつきも嬉しいものですね。

敵中突破、死闘の地
烏頭坂(うとうざか)
map

さて、話は戻りまして戦場からの撤退を決めた島津隊。常識的に考えるならば後方へ退くところですが、島津隊は「敵に背は向けられぬ!」と大胆にも正面に突撃し、徳川家康の本陣をかすめながら伊勢街道を南方に逃走します。もちろん東軍も黙って見ていたわけではなく、井伊直政や松平忠吉、本田忠勝らがすかさず追撃!これに対し島津隊は「捨て奸(がまり)」で対抗します。これは殿(しんがり)の兵が胡坐をかいて敵を待ち伏せるという捨て身の戦術。この烏頭坂では島津豊久がその捨て奸で敵を食い止め、義弘の本隊を逃がしました。この際豊久はここで討死したとも、負傷して落ち延びた先の樫原村(上石津町上多良)で自刃したとも言われています。戦の勝敗には直接関係ありませんが、この決死の退却劇は「島津の退き口」と呼ばれ、島津の武勇を伝えるエピソードとして今も語り継がれています。

烏頭坂には豊久の碑が建ち、そのすぐ近くには鹿児島県から寄贈された「薩摩ベンチ」も。島津家の家紋入り、鹿児島県産のクスノキで造られた素敵なベンチなので、ここに腰かけて勇将たちに思いを馳せるのもオススメです。

次回投稿では、東軍の陣地に出陣!下記リンクよりご覧ください。

この記事を書いた人