明智光秀ゆかりの地を辿る その1~出生地編~

「麒麟がくる」もいよいよ大詰め! という訳で、本誌にて2年にわたり連載してきた「新・光秀紀行(2019年)」と「光秀紀行 解(2020年~)」の取材を通して巡った明智光秀ゆかりの地を改めてご紹介。第一弾は光秀の出生にまつわるルーツから辿ってみましょう。

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▶▶2020年1月号「新・光秀紀行~特別版~」

「麒麟がくる」では「可児説」採用?
でも県内に5つも有力情報があるんです!

大河ドラマ「麒麟がくる」は、光秀20歳頃から物語がスタートしているため出生については明言されていませんが、ドラマの初期は現在の岐阜県可児市にあった明智荘(明知荘)が舞台。出生に関する考察は「新・光秀紀行 第2回」でもしていますが、今回は改めて出生地候補とそれにまつわる関連スポットを見てみましょう。

大垣(上石津)説

父は進仕信周、母は明智家当主・光綱(光隆)の妹で、石津郡多羅で生まれたという説。光綱に子がなかったため、次男である光秀を養子として可児に差し出したと伝わっています。光秀が生まれたとされる「多羅城」の位置は特定されていませんが、西高木家陣屋あたりが有力な候補地。なんとなく雰囲気がありますよね。

一見突拍子もない説にも思えますが、これは塙保己一編さんの「続群書類従」内の「明智系図」や東京大学編著の「明智一族宮城家相伝系図書」内の記載に基づいており、信ぴょう性も確かなもの。可能性としては、十分考えられる説といえそうです。

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瑞浪説

「美濃源氏発祥の地」といわれている一日市場館(現・八幡神社)。光秀はここで生まれ2歳のときに明智城代・光安に引き取られたというのが瑞浪説です。八幡神社内には光秀が生まれたときに浸かった井戸があったと伝わるほか神社北側には土塁の遺構も。また以前から明智光秀像が建っていることでも知られています(ドラマ開始時は岐阜で唯一)。

こちらの像は、以前本誌記事内でも日本に数少ない光秀像の一つとして紹介しましたよね。「麒麟がくる」では父と母の教えとして「土岐源氏としての誉れを持つ」ことの大切さが幾度となく描かれていたので、美濃源氏発祥地に伝わるこの説は、光秀のルーツ中のルーツともいえるかもしれません。

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恵那説

子孫に遠山の金さんを持つ「明知遠山氏」ゆかりの地で、「遠山景行」と土岐明智氏の「明智光安」(※ドラマにも登場した光秀の叔父さん)が同一人物と伝わるのが恵那市明智町の説。なかなか大胆な説ですが、明智町では長年光秀まつりも開催されており、明智光秀ゆかりの地として古くから知られています。立派な山城「明知城」がありますし、明智光秀=明智町出身というのは司馬遼太郎の「国盗り物語」でも採用されているので、全国的な知名度も5つ説の中でピカ一ではないでしょうか。

それだけに、明智町にはゆかりの地が実に豊富。千畳敷台地の砦には「光秀公産湯の井戸」が、天神社には「光秀公学問所」の跡等、幼少期~少年時代に纏わるものも多く残されています。「麒麟がくる」でも教養豊かな姿が描かれていますが、ここには嵯峨の天竜寺(京都)の雲水・勝恵という学僧を招いて、学問に精進したという伝承も。光秀は岐阜にいながらにして、超英才教育を受けていたんですね! 彼の醸すインテリ都会人的雰囲気は、こんな幼少期の環境も影響しているのかなと考えると、非常に面白いです。

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また、注目したいのは八王子神社内の「光秀公手植えの楓」。写真の祠は、万葉の歌人・柿野本人麻呂を祭神とするもので、社殿には明智氏の桔梗紋が彫られ、人麻呂の画像が祀られています。さらに伝承では、この社の前の楓は光秀自身が植えたと伝わっているというから驚き!

ドラマ内でも光秀は、公家の三条西実澄に好きな詠人を尋ねられ、「柿野本人麻呂につきるかと」と、即答(第35回)。こうした伝承と「麒麟がくる」の物語がさりげなくシンクロしているのは感慨深いというか…演出の妙にも心打たれました。

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山県説

さあここまで見てくると、どの説もさもありなん! さすがに山県説は当て馬なのではと思ってしまいますが、実は山県市、トンデモナイ隠し玉を持っているんです! それは「ゆりかごから墓場までwith生存説」という豪華デザート付きフルコースのような伝承。まず出生から見てみると…土岐四郎基頼の子として生まれ、7歳の時に可児の明智光綱の養子に入った、というのが基本ベース。従って白山神社にはこんな立派な「うぶ湯の井戸跡」が残っています。

でもちょっと待って…? 井戸はいいとして、故郷を離れたはずの光秀のお墓がどうしてこの地にあるの!?

その理由こそ、驚くべき「生存説」がここには残っているから。実は明智光秀は本能寺の変後も生き延びており、故郷であるこの地にて「荒深小五郎」として暮らしていたというんです。しかも!!なんと小五郎(=光秀)は、1600年の関ケ原の戦いにも徳川家康率いる東軍に従軍しようとしていたとか。しかし薮川(今の根尾川)を馬で越えようとしたとき、洪水に巻き込まれて亡くなったといわれています。

産湯の井戸から少し登ったところにある「桔梗塚」が、明智光秀の墓とされている場所。

東軍で参戦を決めたというのも、やはり光秀は「麒麟がくる世」を、天下泰平の世を家康に託したかったからなのでしょうか。でもこの説が正しければ、光秀は73歳の高齢で戦に向かおうとしたことになるんですね。果たして真相はいかに――?

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可児説

さあ、いよいよ大本命の「可児説」といきたいところですが…実は上記4つの説のどれが正解だったとしても、少年光秀は可児に送り込まれていることにお気づきでしょうか。いずれにしても光秀は、青年期をこの「明智荘」を拠点に暮らしていたと考えることができるのです。そしてその中心地が、ドラマでも幾度となく登場した「明智城(明智長山城)」です。

ところがこの辺り、明智荘(明知荘)と呼ばれる荘園があったことは分かっているものの、今も城の位置は決定的ではありません。とはいえ現在城跡ではないかと有力視されている場所はしっかりと整備され、見晴らしも抜群!

昨年本丸跡(と考えられている場所)には光秀のブロンズ像も建立され、盛り上がりを見せていますよ。

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岐阜県に深~いルーツを持つ明智光秀。第2弾では彼が半生以上を過ごした県内ゆかりの地をさらにご紹介します。

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