「麒麟がくる」ロスを長きにわたり引きずり過ぎて(涙)、ようやくのアップとなりました、光秀ゆかりの地巡り第4回。
光秀が歴史の表舞台に出始めたのが40代とかなり遅めだったことを思うと、馴染みのあるスポットはある意味この時代に凝縮しているかもしれません。今回はそんな光秀が携わった名城たちをご紹介します。
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2020年1月号「新・光秀紀行~特別版~」
美しき水城「坂本城」
信長家臣として、初めて一国一城の主となった光秀。武功を上げた比叡山延暦寺(その③参照)に対する抑えとして、また琵琶湖水運の拠点として築かれたのが「坂本城」です。
現在、遺構はほとんど残っていませんが、実はここ、城造りの名手・光秀の実力がいかんなく発揮されたお城。城内に琵琶湖の水を引き入れた水城形式で、高層の天守閣に小天守閣を連立した、豪壮なものだったといわれます。そのすごさは、宣教師のルイス・フロイスも「信長が(後に)安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にない」とべた褒めしている程。ちなみに安土城も築城当時は琵琶湖に面しており、坂本城と安土城、それに秀吉の長浜城は船で行き来されていたとか。位置関係的にも大きさ的にも、ひょっとすると坂本城と安土城は、互いの姿が見えたのかもしれませんね。こんなところにも、信長の光秀愛が垣間見える気がします。
さて、坂本城址公園のシンボルといえば、この大きな光秀像ですが、
こちらの歌碑にもご注目!
その名も「光秀(おとこ)の意地」! 光秀と書いて「おとこ」…!! 光秀の人生と葛藤が凝縮された歌詞にも、すごく心打たれますよ。さらに特筆すべきは右下に描かれた馬にまたがる勇ましい甲冑姿。おお~さすが光秀、カッコイイ♡ と思った方は不正解。実はこの絵、光秀ではないんです。じゃあひょっとして壇ノ浦の那須与一サン? と思った方も大ハズレ。
正解は、光秀の重臣としてお馴染みの明智左馬之助。彼の勇ましいエピソード「明智左馬之助の湖水渡り」を描いたものなんです。イメージとなっているのはこんな逸話。光秀が山崎の戦いで秀吉に敗れた後、左馬之助は坂本に戻ろうとしますが、大津で敵の堀秀政に遭遇。その際に琵琶湖の湖上を馬で越えたというものです。左馬之助はその後坂本城で自害したとされていますが、この湖水渡りのエピソードのお話は、後世までずっと語り継がれているんですね。
また、坂本城跡まで来たら見ておきたいのが、ここから2km程の場所に位置する「穴太衆積み石垣群」。
その③でもちらっと紹介した、比叡山延暦寺の門前町・坂本は石工集団・穴太衆(あのうしゅう)が暮らした町です。穴太衆は「麒麟がくる」でも度々その名前が出てきましたよね。坂本は今もあちこちで穴太衆積みの石垣が見られる町。自然石を加工せず巧みに組み合わせる技法は、戦国時代の城造りや寺院建築にも大活躍しました。超技術集団が暮らした町、というシチュエーション毎そそられますよね。
さて、お次は光秀の丹波攻略にまつわる城を見ていきます。その拠点となるのが「亀山城」ですが、こちらは本能寺の変に関わる城でもあるので、ご紹介は次回にて。今回は光秀の領地経営者としての手腕がよく分かる、2城を見てみましょう。
威容と防御に長けた「黒井城」
5年もの長い歳月を要した光秀の丹波・丹後の領国平定。ドラマ内でも光秀の口から国造りの理想が語られましたが、彼の統治方法のうまさは地元領主たちを残しつつ城の新造・改築を行い、自らの重臣に拠点管理を任せることにありました。「黒井城」は「麒麟がくる」において、公家の近衛先久が亡命した地としても登場しましたね。
現在の兵庫県丹波市に位置するこのお城は、丹波平定後に光秀の管轄下に入り、重臣の斎藤利三を城主としました。
標高356m(金華山の389mとほぼ同じ!)の山上には本丸が築かれ、特徴的なのは麓からも見えるその高石垣。三方の防御を固める曲輪にも同様に石垣が配されています。こうした鉄壁の防御と威容を示す工夫には、光秀と信長が城造りにおいて同様のスピリッツを育んでいたことが見てとれますよね。
そして――光秀の国づくりの想いがこめられた城として忘れてはならいのが「福知山城」です。
光秀の理想がココに「福知山城」
明智光秀が丹波経営の中心とした城が、京都府福知山市にある「福知山城」。
この城も敵方の横山城を改築したもので、城代として明智左馬之助(秀満)を置きました。築城と並行して光秀が行ったのが、付近を流れる由良川の治水。城下町を守る堤防を築き、その名残は今も「明智藪」と呼ばれ、姿をとどめています。「麒麟がくる」でも、丹波の暮らしの諸問題に真摯に向き合おうとする姿が印象的でしたが、実際にも光秀は、この地で計画的な都市づくり、治水工事、さらには地子銭(税金)免除等、善政を敷き、民に親しまれていたそうですよ。
城に目を向けてみると、石垣は築城当初の趣をとどめており、寺院の石仏等を用いる等、安土城や二条城等、ここでも信長の城造りとの共通点が。
さらに注目したいのが、下地図に示すような光秀の城の位置関係。
従来の坂本城に加え、丹波攻めの拠点である亀山城、さらには丹波を手にしたことで、光秀が天下の東と北西をガッチリ固める立場にあったのです。ここからも信長が光秀をいかに信頼していたかが分かりますね。
さあ、では最後に丹波平定後の光秀が築いたお城を見てみましょう。
総石垣のマンモス城?「周山城」
天正7(1579)年、丹波平定後の光秀が支配の拠点とした城「周山城」。光秀が自らを周の武王になぞらえて(意外な一面!)周山と改めたと言われており、信長の「岐阜」の由来とも、ちょっと似ています。480mの丘陵の上からは、京都と若狭を結ぶ周山街道を一望でき、交通の要衝としても機能していました。
現在は破城の雰囲気がもの悲しいですが、当時は安土城と同様の総石垣だったとか! 8方向の支尾根に曲輪が築かれ、下に示すような石垣が全体に行き渡っていたといいます。
これを見るだけでも、光秀がかつてどんな立派で美しい城を築いたのだろうと、思いを馳せたくなりますね。
いよいよ次回は「本能寺の変」にまつわるゆかりの地をご紹介。光秀の心にはどんな気持ちが去来したのでしょうか。実際に訪れることで見えてくるものがあるかもしれません。
※黒井城、周山城の画像は柴田正義さんご提供いただきました。
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