明智光秀ゆかりの地を巡る その5~伝説昇華編~

3回くらいで終わる予定のこの連載でしたが、ロスを引きずるに引きずって、気付けばその⑤。最終回、お付き合いの程どうぞお願い致します。

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2020年1月号「新・光秀紀行~特別版~」

幕臣・光秀としての姿がフィーチャーされた「麒麟がくる」の後半は主に京での活躍が中心となりました。この辺りからの十兵衛サマは、インテリでスマートで男気があって、さらには都会的な雰囲気が匂い立つようで、ホレボレしましたよね♡

と言いつつ、まずご紹介するのは広島県のゆかりの地。15代将軍・足利義昭と十兵衛の再会の地となった港町です。

潮待ちの港「鞆の浦」

史実では光秀が実際に足を運んだかは定かではありませんが、ドラマ中でもとても印象的に登場したのが、広島県福山市にある「鞆の浦」。瀬戸内海の中央に位置し海流の境目にある町で、船乗り達は潮の流れが変わるのを待って瀬戸内海の横断に備えたと伝わります。

今も港町の風情がとてもステキなこの港町。船着き場の雁木に、使いこまれた漁船たちを見ていると、日がな一日釣りに明け暮れる公方様の様子も、十兵衛と一緒に鯛釣りに繰り出す姿も目に浮かんできそうですね。

今回のように信長による追放後の義昭の姿が描かれるのも珍しい(落ちぶれたor野垂れ死んだと思われがち…)ですが、2017年に岐阜の美濃加茂ミュージアムで見つかった「土橋重治宛光秀書状」の原本には「将軍(義昭)ご入洛のことについては、ご奔走されることが大切…」という記述が!光秀が鞆に住む義昭の帰洛を実現するために画策していた証拠として、注目されているんですよ。(何気にすごすぎる発見Σ(・□・;))

史実的にも光秀が「将軍を棟梁とした平らかな国」を理想としていたことを、うかがい知ることができますね。

ちなみに信長死後の義昭は、槙島(京都府)に1万石の領地を与えられ、秀吉の御伽衆(話し相手)に加わるなど、意外にも楽し気な余生を送っていた模様(秀吉の人好きする憎めない点ですよね。ドラマでは粗略に扱われていましたが…)。平和を愛する公方様らしい人生かもしれません。

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さあ、いよいよ舞台は京へ。そこでまずは京の俯瞰で主要スポットの場所をチェック。ざっくりと位置関係を把握しておくと、よりリアルに歴史を感じられますよ(たぶん)。

大文字山から西方を望む。

それでは時系列に沿って、順に紹介していきましょう。

5月27日「愛宕神社」

本能寺の変の数日前にあたる5月27日に光秀が訪れたのは「愛宕神社」

愛宕神社

標高924mに位置する、朝廷・武門の信仰があつい愛宕社の本社です。片道約2時間、登ってみて思うのは、光秀タフ過ぎ! 健脚過ぎ!!(当時55歳 ※所説有)しかし歩いているうち、だんだんと心穏やかになるような、不思議な空気感に包まれてきます。

ドラマでの愛宕神社のシーンは十兵衛個人の葛藤がフィーチャ―されていましたが、ここで詠まれた歌として有名なのがこちらの句。28日、愛宕神社の威徳院西坊で自ら催した連歌会における、光秀の発句です。

時は今 あめか下しる 五月哉

所説ありますが、「時」は明智氏の本姓「土岐」、「あめか下しる」は「天下を治(し)る」にかけて、「今こそ土岐の人間である自分が天下を治めるときである」と、信長への謀反の決意を示したものである、という解釈もされています。真相は果たしてー―?

愛宕神社

また、これもドラマでは描かれませんでしたが、光秀は愛宕神社のおみくじで凶ばかり連続で引き、吉が出るまで何度も引き続けたとか。まあヤケクソにクジを引くのは、麒麟の十兵衛サマにはそぐわないエピソードですけどね…

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いずれにしても、愛宕神社にて謀反の決意を固めた光秀。亀山城に戻るとついに出陣準備に取り掛かります。

6月1日「亀山城」

「亀山城」は、光秀が丹波攻略の拠点として築城した城。ドラマでも丹波攻めの際等、何度か登場しているように、光秀の活躍にはなくてはならない非常に重要な城でした。

亀山城

本来ならここから秀吉の中国攻めをサポートするため、西方に向かう予定でしたが、光秀は重臣たちにのみ自分の本心、つまり謀反の決意を打ち明けます。そして老ノ坂を越え、夜の闇の中、本能寺へ向けて前進するのです。

本能寺への道筋はこんなカンジ。

京都市街地からもさほど遠くない亀山城。本能寺を攻めるにはこの上ない立地であるようにも思えます。

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6月2日未明「本能寺跡」

夜明け前に本能寺に到着した明智軍。実は当時の本能寺は今の本能寺から2km程南西。現在は「本能寺跡」の碑が建つのみですが、当時は油小路通から小川通、西洞院通まで至る大寺院だったとか。140m×270m程の寺域を誇り、周りには堀がめぐらされ寺町が形成されていたと伝わります。

本能寺跡

ドラマ内でもこうした寺の広大さが分かる演出がされており、寺内で戦う信長と寺外で控える光秀の様子が対比的に描かれていたのが印象的でした。

こちらは現在の本能寺です。

本能寺

指折りの知名度を誇る古刹の境内が商店街の中に忽然と現れるのも、いかにも京都らしいです。豊臣秀吉の命で現在地に移されており、「織田信長公供養塔」には、石塔の下に信長が使用した刀が眠っています。

織田信長公供養塔

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▶本能寺跡 本能寺

6月13日「小栗栖」

本能寺の変の後、天下をとった光秀ですが、その13日後、山崎の戦いにて羽柴秀吉に敗北。坂本城を目指して近江方面に向かう途中、小栗栖の竹藪で落ち武者狩りをしていた農民の竹槍で深手を負い、自刃したと伝わります。

住宅街に奥にひっそりと碑が建つ、その場所がココ「小栗栖」

小栗栖(明智薮)

通称「明智藪」と呼ばれる竹藪です。(ちなみにその④で登場した明智藪は堤防であり、別物です。)

しかしやっぱり「麒麟がくる」で十兵衛サマのトリコになったファンならば、「生存説」を信じたくなるところ。もしかすると菊丸(※農民バージョン)が光秀にとどめを刺したフリをして丹波の山奥に逃がしたんじゃ…? そんな想像(妄想?)をしたくなっちゃいますよね。

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と言いつつ、最後にご紹介するのはコチラ。

「明智光秀の塚」

なんとここは、明智光秀の首が埋められていると伝わる場所。自刃した光秀の首は家来が切り落としましたが、知恩院の近くまで来たところで夜が明けたため、この地に埋めたとされているのです。

明智光秀の塚

でもこれも絶対言い伝え(願)!! きっと十兵衛サマは菊丸が…(以下略)

現代でも「麒麟がくる」の世界でも、その存在がまことしやかに語り継がれる明智光秀。「将軍を棟梁とした平らかな世」を徳川家康に託し(あるいは一緒に築き)、天下泰平の世をもたらしてくれたと思うと、十兵衛自身が伝説の生き物・麒麟なのではないかと思えてきますね。

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さて5回に及んだ(予定より長くなりました…💦)明智光秀ゆかりの地巡り。名残惜しいですがここで一旦中締めとさせていただきます。

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