明智光秀ゆかりの地を巡る その3~さすらいの幕臣編~

美濃を追われた光秀が向かった先が現在の福井市の山あいに位置する越前の一乗谷。そこにあったのは京都・堺に次ぐ日ノ本第三のマンモス都市でした。ここ越前で光秀は困窮しながらも、家族と共に穏やかな日々を過ごします。

明智光秀ゆかりの地を辿るその 出生地編~
明智光秀ゆかりの地を巡る その②~美濃青春編~
20201月号「新・光秀紀行~特別版~」

一乗谷朝倉氏遺跡

一乗谷は、越前で5代103年にわたり栄華を誇った朝倉氏の戦国城下町。「麒麟がくる」の中では城主の朝倉義景との微妙な関係性も描かれていて面白かったですよね。京との交流も盛んに行われていたこの場所は、山に挟まれた深い谷間の大都会。にもかかわらず発掘されたのは1967年と比較的最近で、そんなシチュエーションから「日本のポンペイ」というドラマチックな二つ名を持っています。

▲標高473mの「一乗谷城跡」より見た一乗谷。「宿直」からは谷一帯が見下ろせます。

▲山上部には堀切等かつての遺構も残っていますよ。

ちなみに城下町がどうして地中に埋まっていたのかというと…1573年、織田信長との戦によって街が焼土と化してしまったから。さらにその後400年以上も田園の下にそのまま埋もれていたからなのです。ポンペイのように火山灰ではなく田んぼの下から見つかったというのも、日本ならではですよね。

こちらのメインスポットといえば、やはり「朝倉館跡」

主殿、茶室、日本最古とされる花壇の遺構や、美しい石組を残す庭園群は必見。雅な文化の香りをはっきりととどめています(ドラマでも美しく再現されていました)。



「復元町並」
。約200mにわたり、発掘された礎石に当時の建物が忠実に再現されており、まるで本当に城下町が蘇ったような臨場感です。ドラマ内でも光秀が歩いていた華やかな街の様子が、目に浮かんできますね。

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さて、その一乗谷から峠を一つ越えた東大味という地にも、光秀ゆかりのスポットが。光秀はこの東大味で5年程暮らし、三女のたまはここで誕生したといわれています。

▲光秀の屋敷跡と伝わる場所に建てられた「明智神社」。命日の6月13日には御開帳され、光秀の坐像を拝むことができます。ちなみに上記の信長の朝倉攻めの際には、光秀は柴田勝家に「安堵状」を依頼。こうして東大味を戦火から守ったことから、今も「あけっつぁま」と呼ばれて親しまれているんです。人から受けた恩を大切にする、光秀らしいエピソードですね。

歴史上、光秀は越前で朝倉義景を見限り、幕臣・細川藤高と共に岐阜市の「立政寺」での信長と足利義昭の対面に一役買うことになるのですが、長く暮らした一乗谷の焼き討ちは光秀にとってもつらい出来事であったに違いありません。

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明智神社(福井市) ▶立政寺(岐阜市)

国友鉄砲鍛冶の里

さて、時代があちこちしますが続いては近江(滋賀県)方面へ行ってみましょう。まずはドラマの初期、鉄砲について調べるため光秀が訪れた「国友」へ。

 

国友は堺と共に戦国~江戸時代にかけて日本屈指の鉄砲生産地として栄えた地で、その後の展開でも度々名前が出てきましたよね。またここは、北近江の浅井氏の出城があった重要拠点。浅井家の居城・小谷城の外堀的役割を果たし、浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が激突した「姉川」からも、非常に近いところにあります。大量の鉄砲を確保するという意味においても、浅井討伐は、信長にとって非常に大きな意味を持っていたといえるのです。

姉川。多くの死傷者の血で川が真っ赤に染まったと伝わります。

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▶国友鉄砲鍛冶の里 ▶姉川古戦場跡

金ヶ崎城

再び話が前後しますが、朝倉・浅井との戦いでの光秀的ハイライトといえば「金ヶ崎の退き口」です。浅井長政の裏切りに合い、挟み撃ちの大ピンチに陥った織田軍。その決死の退却戦の殿(しんがり)を、光秀は秀吉と共に務めあげたのです。

実はこの戦い、長らく秀吉1人の武功として広められてきたもの。光秀の功績には、こんな風に秀吉に消されたものが様々にあるのですが、「麒麟がくる」では光秀一人が殿を務めようとするところを、秀吉が必死に願い出るというオリジナルの展開。2人のアツイやりとりや秀吉のピュアな野心が感じられる名シーンでしたね。

▲現在の金ヶ崎城からの眺めです。

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こんな風に織田と朝倉・浅井との長びく争いと共にあったのが信長の時代。ドラマ内では光秀が“幕臣”という立場で信長を支え奔走する姿が描かれていましたが、中でも最も有名なのは、「比叡山の焼き討ち」です。

比叡山延暦寺

朝倉・浅井軍についた比叡山を焼き払う――そんな信長の残虐性がフィーチャーされがちなこの歴史的大事件ですが、「麒麟がくる」で重きをおかれたのは、もっと複雑な対立構造。武士と宗教勢力の争い、帝と天台座主・覚恕兄弟の確執等の上で、信長と光秀の価値観の対比が描かれていて、非常に心揺さぶられました。

標高848mを誇る天台宗の大本山は、比叡山一帯が寺域となっていますが、根本中堂(※現在改修中)や東塔等の建つエリアまでは、徒歩で登ることも可能。今回は光秀ゆかりの滋賀県坂本(次回の記事で紹介)側から登ってみましたよ。ケーブルカー(なんと日本一の長さ!)もありますが、徒歩でも1時間~1時間半くらいの行程です。

日吉大社の脇の階段が登り口です。

山頂から望む琵琶湖方面。

あいにくの曇天でしたが神秘的な雰囲気で美しかったです。

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さて比叡山での功績により、ついに織田家臣団(※と言いつつ幕臣ですが)の中で初めての一国一城の主になった光秀。次回は「坂本城」をはじめとするゆかりの城を中心に、輝かしい光秀の人生終盤戦をお届け。おそらく「麒麟がくる」最終回より後のアップになると思いますが、ぜひご覧くださいね。

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